先日、鎌倉を訪ねました。
駅前に停留していたレトロなバス。
境内では菊花大会が開催されていました。
丹精込めて育てられた花々が参拝客の目を楽しませています。
菊の花言葉は『破れた恋』。
静御前は、源頼朝の弟、義経の恋人だと伝えられる人です。頼朝は天下を治める将軍となりましたが、流転する情勢に翻弄された義経は何時しか兄頼朝の不興を買い、追われる身となってしまいました。静はそれでも義経を慕い、義経の子を宿した身体に鎧を纏って薙刀を携え、彼と同行を続けます。逃亡の日々を送る中、益々追い詰められていく義経一行…静は自分の身を差し出して、吉野山に身を隠した義経たちを庇ったのでした。囚われの身となってしまった静には厳しい取調べが待っていましたが、彼女は絶対に口を割りません。敢えて義経たちの逃亡先を聞かなかなかった静には答えようもないのでした。そうするうち、春が訪れて、鶴岡八幡宮で花見の催しが行われることになり、当代随一の白拍子と称せられていた静はそこで舞を観せるよう命じられます。静は義経を追う敵将の要求になど応えるべくもなく、もちろん断りましたが、神へ奉納するための舞だと押し切られ、身重の身体をおして義経の名を汚さぬよう、素晴らしい舞を披露しました。桜舞い散る中、静は唄い、踊ります。
しづやしづ しづの苧環 繰り返し むかしを今に なすよしもがな
吉野山 嶺の白雪 ふみわけて 入りにし人の 跡ぞ恋しき
静が舞ったのは、謀反人である義経への恋慕を唄ったものでした。鶴岡八幡宮という場所でこのような振舞いをした静に頼朝は激怒します。この時は頼朝の妻、政子の取りなしで静が身籠っていたこどもが女児ならば母子共に許されることとなりましたが、後に産まれてきた子は男児でした。争いの火種となることを危惧した頼朝の手の者によって産まれてきた子は殺されてしまい、その後の静の行方について今もはっきりしたことはわかっていません。
鶴岡八幡宮は箱根権現に並び、この時代、武家から絶大な尊崇を集めていました。里見義豊が叔父の義堯と当主の座を巡って争い、鶴岡八幡宮を炎上させた際には、それが原因で形勢が一気に逆転し、権威失墜へと追い込まれてしまった程です。そして、この時義堯の後押しをしていたのが北条氏綱でした。氏綱はこの機を逃さず、鶴岡八幡宮の造営に着手、再興事業を主導し、関東での支配力を益々強めていくこととなります。この時代、鶴岡八幡宮の再興事業にあたることは、頼朝の妻政子を輩出した執権北条氏や鎌倉公方といった関東の武家政権において政治的後継者として名乗りを上げたに等しいものでした。そうした意味も込めて『伊勢』から『北条』へと名を改めたのもこの頃です。鶴岡八幡宮の再興事業は子の氏康の代まで引き継がれ、関東制覇を悲願としていた北条家はさらなる領国の拡大を図っていきました。
参考HP:『ねずさんの ひとりごと』