現在京急油壺マリンパークがあるあたりには、かつて三浦一族が治めた新井城がありました。北条氏に攻め立てられた三浦一族が、最期の砦として籠城戦を繰り広げたところです。新井城は、三方が海と険しい崖に囲まれ、海からも非常に攻めにくい自然の要塞とも言える堅固な城でありました。また当時は横堀海岸から油壺湾までの土地を掘り切り、そこに海水を張って守りを固める島のような城だったと言います。島城のため、内陸との行き来には橋をかけていましたが、戦時にはこの橋を城の方に引けば、敵の進入を防ぐことが出来ました。三崎口駅から城ヶ島行きのバスに乗れば、2つ目の停留所で『引橋』とアナウンスが入りますが、このあたりにはかつてこの橋があり、今でも地名となって当時の名残を留めています。
北条と三浦が闘いを続けていた頃、この『引橋』のあたりで茶店を営む老夫婦がいました。2人の人柄もあり、元々客足は少なくありませんでしたが、北条と三浦の戦が激しさを増すと、大勢の武士団が立ち入り、彼らに武器や食糧を供給する商人たちもやってきて、この一帯は大いに賑い、老夫婦の営む茶店にもさらに多くの人々が訪れるようになります。もちろん北条・三浦の攻防戦は茶店を利用する人々の恰好の話題となっていました。人の良い老夫婦は、茶店を訪れた人々へのもてなしの気持ちもあったのでしょう、そうした人々に新井城について知ることを洗いざらい話してしまいます。そうするうちに、3年にも渡る凄惨な籠城戦の末、三浦一族はとうとう滅亡の時を迎えたのでした。老夫婦は三浦の城が落ちてしまったのは、自分たちが誰彼構わず新井城について何もかも話したせいではないかと自責の念に駆られます。茶店を訪れた人々の中には、利用客を装って密かに新井城の情報を得ていた北条の手の者もいたことでしょう。2人は良心の呵責に耐え兼ね、とうとう心中してしまったのだと言います。後にこの老夫婦の死を哀れんだ里人が夫婦地蔵を祀って供養を手向けました。今でもこの夫婦地蔵は三崎を訪れる人々をひっそりと見守っています。
新井城は前述の通り、三方を海が取り囲む自然の城壁に守られた難攻不落の城でした。さすがの早雲も攻めあぐね、この城の構造を逆に利用した籠城戦に持ち込んで、兵糧攻めを開始します。籠城戦は実に3年にも及びました。三浦の兵は武器にも食糧にも事欠き、疲弊していくばかりです。当主の三浦義同は自らの最期を覚悟し、それでも一族の血を絶やさぬ為にと、敗戦の兆しが濃くなる中、身重の妻を密かに城から逃がしました。しかし、逃亡の最中、義同の妻はそれまでの無理が祟って授かっていたこどもを死産してしまいます。そして哀しみにくれながらもその亡骸を懇ろに葬った後、近くの坂を下りきったところにある沢で無念のまま自害してしまったのでした。この哀話から、彼女が死産の末、非業の死を遂げたなも田坂には、妊婦が歩けば彼女と同じお産の苦しみを味わい、産後に亡くなれば、永遠にその苦しみに苛まされるという悲しい言い伝えが残っています。
敗戦を控え、荒れ果てた城内に残った者たちの末路も凄惨なもので、闘いで死ぬことの叶わなかった兵たちは敵の手にかかるよりはとお互い斬り合い、あるいは自刃して、次々に海へと身を投げました。その数は70~80名にも及んだと言います。海は虚しき敗者の血で赤く染められ、まるで油を流したかのように見えたことから、それ以来、この地は『油壺』と呼ばれるようになりました。
三浦義同とその息子、義意も最期は非業の死を遂げましたが、義同は前述の老夫婦のように慕ってくれる領民もあった良き領主でもありましたし、息子の義意も身の丈7尺5寸(約2m30㎝)の筋骨隆々たる偉丈夫で、その強さは85人力とも称えられていました。三浦との度重なる戦の中、優勢になりつつあった北条軍ではありましたが、巨大な金棒を振り回しては縦横無尽に戦場を駆け抜け、次々と敵将を討つ鬼気迫った義意の姿に多くの兵士たちは恐れ慄くばかりです。しかし、勇敢にも義意に立ち向かっていった北条方の若武者たちがおりました。4人がかりで飛びかかるも、85人力と謳われた義意の強さにはやはり敵わず、迫り来る兇刃の前に彼らは死を覚悟します。三浦にとっても苦しい闘いが続いていましたが、そうした中でも志高き若武者たちの姿に心動かされた義同は、きっと未来の為に役に立つ者たちであろうからと彼らを許し、命を救いました。ですが、時が経つにつれ、戦況は三浦にとって益々悪化していくばかり…そして、とうとう獅子奮迅の働きを称えられた義意も討死し、義同も自刃して果て、三浦氏はここに滅亡の時を迎えることとなりました。
義同に命を救われた若き北条の獅子たちは、彼の死を知るやあの時の恩義に報いる為にと後を追って自刃してしまいます。義に殉じた彼らが死に場所に選んだのは、かつて義同が治めた新井城の臨める高台でした。若武者たちの死を哀れんだ村人たちはここに塚を立て、手厚く葬ったと言います。
討つ者も 討たるる者も 土器(かわらけ)よ くだけて後は もとの土くれ
三浦を滅ぼした北条の最期を暗示していたかのような義同の辞世の句です。
討つ人も 討たるる人も もろともに 同じ御国の 為と思えば
宇都宮でみた、戊辰戦争を悼むこの歌碑の句を思い出さずにはいられませんでした。
今も穏やかに弛むこの水面には、名もなき人々の生きた証が確かに刻まれているのです。
参考HP:三浦市HP