北条幻庵は早雲の三男として生まれましたが、幼き頃より仏門に入り、箱根権現別当を勤めました。箱根権現は、平治の乱に敗れた源頼朝が伊豆に流された際、頼朝の為に祈祷を行ったり、石橋山の合戦直後にも頼朝主従を援助した為、頼朝が幕府を開き、天下を治めることになった折には頼朝から特別な信仰と保護を与えられています。箱根権現は、同じく頼朝の旗揚げを手助けした伊豆山権現とともに、『二所権現』と称せられて、将軍家をはじめとする幕府御家人の尊崇を集めることとなり、将軍家からの社参、奉幣、社領寄進等も盛んに行われました。将軍自ら伊豆山権現と箱根権現両所に詣でることを『二所詣』と言い、この風習は頼朝の頃から宗尊親王の代まで続けられることとなります。そしてこの頃、箱根権現は『御成敗式目』をはじめ、武家起請文の神名筆頭に挙げられる程の権力を持つようになり、その社務をとり仕切る別当もまた多数の僧兵を擁して勢威を誇っていました。こうした情勢から、早雲は箱根権現を抑える必要性を感じ、ここに自分の息子を送り込むことを考えます。幻庵もそれによく応えて、箱根権現の別当に上り詰め、甲斐山中合戦や武蔵入間川合戦を経て、大将の一人として一族の軍事行動の一翼を担う存在ともなっていきました。そして、甥の玉縄城主北条為昌の死後、これを引き継いで三浦衆と小机衆を指揮下に置き、軍事にも政治にも優れた有力な御家人として仕え、家督を譲った後にも北条家滅亡の直前まで一族の重鎮として活躍し続けることとなります。
軍事においても政治においても辣腕を振るった幻庵でありましたが、一流の文化人として高い教養を誇ってもいました。吉良氏に嫁ぐ息女の為に記された『北条幻庵覚書』(夫や姑の呼び方、家臣への心配り、諸人への対応、年中行事等、日常生活における嗜みを諭したもの)からもその片鱗が伺えます。和歌・連歌の分野においても多くの事跡を残す一方で、その才は作庭から鞍鎧・尺八製作にまで及びました。滝落としの曲を作曲したり、箱根湯本にある早雲寺の作庭をしたのも幻庵だと言われています。代々大納言や中納言を務めた公家の名門、上冷泉家を招いて歌会を催したり、連歌師の宗牧らと交流を持って連歌会を催したりと、幻庵はその深い教養をもって北条家の顔として、外交面でも大きな役割を果たしました。彼らとの交流は、北条家の格式を示すだけでなく、公家や京都の動向をつかみ、政治的情勢を把握する為にも必要不可欠なことだったのです。
そしてまた、混沌とした戦乱の世の中、幻庵は一族の興亡を見るとともに、多くの息子たちの死を見送ってもきました。長男の夭折にはじまり、武田信玄と争った蒲原城の戦で次男、三男も失ってしまった幻庵は、氏康から養子を迎えています。さらにその息子さえ人質として上杉家の養子に出さなければならなくなってしまいましたが、それでも、上杉家に迎えられた幻庵の息子への待遇は謙信の幼名、景虎を与えられる程で、上杉家と良好な関係を築いているかのように思われました。しかし、謙信の死後、その家督を巡って御館の乱が起き、相続争いに負けた景虎は妻と子を殺され自刃、幻庵はまた息子を失うことになってしまったのです。北条五代に渡り、陰日向となって一族に寄り添い、その興亡を見つめ続けた幻庵。その心は深い哀しみを湛えながらも、哀しみを乗り越えた強さと優しさに溢れていたことでしょう。
参考HP:『小田原の歴史』