浄土ヶ浜周辺には宮古湾海戦にまつわる史跡が多く残されています。
▲宮古湾海戦記念碑
▲御台場展望台からの景色
慶応4(1868)年8月19日、元幕府海軍副総裁の榎本武揚は、幕府軍艦「開陽丸」、オランダ製の船体にドイツ製の大砲を備えた世界にも通用する最新鋭の軍艦を旗艦に、回天(かいてん)・蟠龍(はんりょう)・千代田形という三隻の軍艦と輸送船、計八隻で品川を脱出しました。さて、その榎本艦隊は、9月3日、仙台に到着し、榎本は、落城寸前となった会津若松城の会津の精鋭たちを引き取り、勇躍、蝦夷(北海道)を目指します。蝦夷に到着した榎本らは、またたくまに函館の五稜郭を奪い取り、明治元(1868)年12月、蝦夷共和国を誕生させました。ここで榎本は、日本初の「選挙による初代大統領」に就任しています。しかし、旗艦の「開陽丸」が嵐に見舞われ、江差で座礁し、旧幕府軍側の戦力は大幅に削られてしまいました。さらに新政府軍は米軍から購入した最新鋭の装甲軍艦「甲鉄」を入手し、これを旗艦として海軍力も万全にして宮古湾に集結したとの情報が入ります。そこで、旧幕府軍が考えたのが『アボルタージュ』と呼ばれる作戦です。旧幕府軍の軍艦三隻が外国旗を掲げながら宮古湾に侵入し、「甲鉄」に斬り込み隊をなだれ込ませる直前に日ノ丸を掲げて、斬り込み隊が乗った艦を「甲鉄」に接岸させ、この艦を奪取してしまおうというものでした。新政府軍艦の挟み込み、威嚇砲撃は主に「蟠龍」と「高雄」が担うこととし、「回天」には土方を総指揮とした斬り込み隊が乗り込んで、宮古湾へと向かいます。しかし、またここで暴風雨に見舞われ、旧幕府軍の三艦は散々となって「蟠龍」は合流出来ず、「高雄」もエンジントラブルを起こし、結局旧幕府軍は「回天」一艦での『アボルタージュ』決行以外に手立てを考えられなかったのでした。「回天」艦長の甲賀源吾は五稜郭占拠から宮古湾海戦までにおいても素晴らしい采配で戦績を挙げ、旧幕府軍を支えてきました。宮古湾海戦におけるアボルタージュも甲賀の提案で、海戦のさなか左足と右腕に銃弾を受け、それでも艦上で勇猛に指揮を取り続けましたが、とうとうこめかみを射ち抜かれ、美しき浄土ヶ浜の海に散りました。土方の指示で果敢に「甲鉄」に切り込んでいった新選組の野村利三郎もこの海で帰らぬ人となり、斬り込み隊のうち「回天」に帰還出来たのは、土方歳三とわずかに一人ばかりだったと言います。そうして、敗戦の兆しも濃いまま、旧幕府軍は函館へと戦いの舞台を移していきましたが、二股口を守る土方の率いた一隊は、土方の叱責にも似た鼓舞の元、勝てなくても負けることを許されないという極限の苦しい戦いを続けるしかありませんでした。そしてとうとう、土方も自身が副長を務めた新選組の隊士達が最も多く送られていた弁天台場を見捨てることが出来ず、救出をともがいた末に、一本木関門にて戦死。今でもその死は悼まれ、多くの人が縁の地を訪れては彼や彼と共に生きた人たちに思いを馳せています。
参考HP:『ねずさんのひとりごと』
参考文献:『男の隠れ家 特別編集 時空旅人 Vol.11 新選組 その始まりと終わり』