累ヶ淵・累の眠る法蔵寺 | 徒然探訪録

徒然探訪録

御訪問ありがとうございます!!ぜひ、またお越しくださいませ!!

photo:01

▲茨城県水海道市羽生町にある『羽生山往生院法蔵寺』

photo:02

三遊亭円朝の『眞景累ヶ淵』で知られる累の墓所があります。

photo:06

▲周囲に広がるのどかな田園風景

photo:03

▲本堂

photo:05

▲累の墓所
累を殺害した夫の与右衛門、両親に殺害された累の弟すけ、
累がとりついた与右衛門の娘きくもここに眠っています。

photo:07

▲豊水橋
累はこの橋の袂のあたりで殺害されたと言われています。

photo:08

▲鬼怒川沿岸にある累ヶ淵

photo:09

土方歳三ら旧幕府軍もこの鬼怒川を通って北上していったといいます。
豊水橋からほど近い水海道河岸から宗道河岸まで舟で移動したようです。


累の物語は江戸時代初期、慶長十七年(1612)から寛文十二年(1672)までの六十年に渡って繰り広げられた、
親が子を、夫が妻を殺害にいたる陰惨な事件です。
羽生村の百姓与右衛門の後妻すぎは、夫との不仲を恐れて、
その醜く生まれついた助という連れ子の男の子を殺してしまいました。
助には障害があったとも言われており、貧しい農村での口減らしという悲劇に
女の醜い情念が暗く積り、事件をさらに陰惨なものにしています。
すぎはその後、与右衛門との間に子を儲けましたが、
生まれてきた子は自分がかつて殺した助に生き写しの女の子でした。
あまりに助に似ていたため、女の子は『累(かさね)』と呼ばれましたが、
醜くも心優しい娘に成長し、旅の途中で病気になった他国の男性を助け、
その男性と結婚しました。
婿に入った夫は二代目与右衛門を名乗りますが、次第に累の醜さに嫌気がさして
彼女を疎ましく思うようになり、ついには鬼怒川での殺害にまで至ってしまいます。
その後の与右衛門には不幸が続き、累の死霊が後妻との間に生まれた娘のきくにとりついて
苦しめたため、弘経寺の祐天上人が法力をもってこれを解脱しました。
 『累ヶ淵』はこのような実話に基づいた怪談なのです。


以前『累ヶ淵』について書いた記事はこちらから。