土方歳三の足跡を辿るー上三川・宇都宮②ー | 徒然探訪録

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満福寺からさらにドライブを進め、『宇都宮城址公園』へ。桜、散り際でしたが、少し見られました*さくら*


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宇都宮城陥落はどの作品でも土方歳三による巧妙な戦術が功を奏したかのようにドラマティックに描かれていることがほとんどです。


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その一方、宇都宮藩兵が同時期に抱えていた百姓一揆の鎮圧で疲弊し、とても旧幕府軍を迎え撃てる状態になかったことは、そういった物語の中では黙殺され、彼らの苦渋が描かれることもほとんどありません。


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宇都宮城址の清明台付近から見た景色。お天気が良かったので、ベンチでくつろいだり、ウォーキングしている地元の方を多く見かけました。


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お昼はもちろんラーメンです。ギョウザは残念ながらこのお店のメニューにはなく、次に持ち越しです。みそラーメン¥600。こんなにお野菜もスープも溢れんばかりなのにこのお値段、サラリーマン風の男性客がほとんどでした。チャンポンを頼む方が多かったので、このお店の看板メニューなのかもしれませんね。『宇都宮城址』と『二荒山神社』を結ぶみはし通りにあるお店でした。


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高層ビルの間に鎮座する『二荒山神社』。
土方歳三が伝習隊、回天隊あるいは桑名藩士らと共に布陣したと伝えられています。


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宇都宮城下を見渡せる高台にあります。この頃の土方は新選組を越えてもっと大きな枠組みの中で動き始めていました。旧幕府陸軍脱走兵の参謀につき、伝習第一大隊、回天隊、伝報隊との関係を深めていくこととなるのです。4月19日、第一宇都宮戦争勃発。
『宇都宮二荒山神社誌』によると、
『十二時頃、脱走の一隊東南簗瀬口より侵入し、砲声段々、兵火は東南の風にて市中に延焼せり。市民は未だ戦争を目撃せしもの無きを以て、人々争い視んと欲し、社頭の表坂に登●し、群聚数百人に及びし所、弾丸飛来り、樓門前なる茶店の老婦に中り、顔面出血社内に逃れたり、見るもの恐怖悉く散乱せり。千族即ち出て市中を瞰下するに、兵は二隊に分れ、其一は川向町より今泉へ廻れるを以て、是必ず当神社の裏手より襲撃せんことを察し、神輿立退き急ぎ神寶の櫃を役夫に舁がせ、神官社人前後を警戒し、瓦谷村平野神社へ遷座せり。』
とのことで、翌20日旧幕府軍は二荒山神社に仮殿設置の一助として米百俵の寄進を申し出ていますが、この時神官と話したのは秋月と柿沢、土方は秋月の部隊にいましたし、簗瀬橋で味方の兵を斬りつけ、戦意を鼓舞したと言われていますので、『簗瀬口から侵入した脱走の一隊』に土方も属していたのではないでしょうか。物見遊山のようにして二荒山神社へと戦況を見物に来た人々が、砲火に巻き込まれ、大怪我を負った老婦の姿を見て恐くなり、散り散りに逃げていったとあります。

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『二荒山神社』の境内。


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『二荒山神社』の境内から見える景色。この先には宇都宮城がありますが、ここから本丸を狙って大砲を撃ったようです。


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『二荒山神社』の境内にある大銀杏。推定樹齢300年だそうなので、布陣した際に土方も目にしていたかもしれません。


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本堂の前に植えられていた『塩釜桜』。昔は宇都宮名物『七木』の一つ、珍重の桜花として広く親しまれていたそうです。花弁の層が幾重にも重なり、小さな牡丹のような形をしていました。


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境内から『PARCO』や高層ビルが見える不思議な感覚。


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梁瀬橋。


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土方歳三が敗走しようとした自軍の兵を切り捨て、味方を鼓舞したという話は桑名藩士中村武雄の『戊辰桑名戦記』に見られます。

『我兵は斥候兵の走るを見て、敵は近傍に備えたるらんとて更に油断せず。愈進んで平松新田に至りしに、是より麦田渺茫として、城は遥の先に在り。

手向う者もあらざれば城下の町に乱入し、四方八面に火を放つ。折節風力烈くして火焔盛んに燃え上り、さしも繁華の宇都宮も看々灰燼とならんとする勢なり。去ば城を攻よとて田畦道を左転して真地暗に城の搦手へ迫りしに、此は極めて要害にて敵も左右なく逃去らず。城に據りて此を必死と相拒く。我兵少しもためらわず城の真際に攻め、近き相遒(せま)る事歩に過ぎず。屋敷を以て盾となし、一揉に攻落さんと迫りけり。敵も此限りと思いしや、城の中より躍り出、短兵急に斬込たり。

是時、城際に進みたる兵は我藩の外、回天隊の人数五、六名ありしのみ。土方歳三は歩兵の退くを見て、進め進めと令しつつ逃る者一人を斬倒す。歩兵は是に激まされ再び進みたれども、土方は血刀提げ悠々と退きたる故、歩兵も再び退きたり。(新選組裏話)』


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下河原門跡。須賀神社の祠が目印になります。


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宇都宮藩中老・県勇記の日記に簗瀬橋からなだれ込むようにして、下河原門に迫ってくる旧幕府軍の様子が書かれています。

『賊兵は豫て官軍が用意して備えたる平松村には出ずして、其南なる大塚村に出て横ざまに後を絶つが如くに見えければ、味方は俄に兵を歛めて北に退き、宿の郷村より城内に入りぬ。
賊は官軍に引続き市中に押寄せ城に迫ると思の外、直に簗瀬村の方に入り、人家諸所に火を放ち、下河原の城門より本丸に迫らんとする勢なり。此日諸藩の官軍口々を守り、下河原口は多く本藩の兵にして香川氏指揮せられ、力を悉くして拒き守れり。これより敵味方互に銃砲を発して相戦う。

賊は尚進んで、散兵を以て簗瀬橋より蜚の如く城門に迫り来るを見て、本藩の戸田朽弦父子、石原五郎左衛門、天野六郎等城門を開て突て出て、槍を揮て血戦す。敵味方死傷あり。さすれど賊勢益熾にして屈せず、敵の放つ銃丸は二ノ丸の忠恕公の居館の内に雨の如くに飛び来れり。香川氏は始終下河原の敵に対して指揮せられけるが、此勢を見て公の死傷あらんことを危み、藩の老臣等に告げて曰く、今日の義は敵兵多くして味方寡し、必勝の事期し難し。若し万一敗れに至り、官軍の大旗賊手に落ちなば此上もなき恥辱なり。公には早く此旗を保護して竊かに城を遁れ玉えとありければ、さればとて公には其旗を護り僅かの臣下を召し供として、北を指して避け玉えり。(県勇記手記)』
 
簗瀬橋から下河原門へと鬼気迫る勢いで攻め入る旧幕府軍。怯んだ自軍の兵を斬りつけ、彼らを鼓舞しながら、これを指揮していたのが土方歳三だというのがファンの間では定説になっています。


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英巌寺跡。宇都宮藩主戸田家の墓所があります。


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住宅街の路地裏のようなところにあり、現在は児童公園になっています。


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第46代城主、戸田忠恕の墓。天狗党事件の責任を追求されたり、宇都宮城が陥落してしまったりと苦難続きで心身ともに疲弊したからか、22歳という若さで急死してしまいました。


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戸田忠友の墓。忠恕とともに藩の再建を目指しましたが、直後忠恕が急死。忠友自身は78歳まで生き、明治2年には宇都宮藩知事に就任しています。


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忠恕以前の戸田家の藩主たちの墓標。


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19日の攻防で旧幕府軍は城下に火を放ち、この混乱に乗じて英巌寺で新政府軍に捕らわれていた板倉勝静を救出しました。板倉勝静は備中松山藩(現在の岡山県高梁市)の藩主です。彼が藩主に就任した頃の松山藩は大変な財政破綻に陥っていました。この財政の立て直しに辣腕を振るったのが儒学者の山田方谷です。『備中鍬』の売り込みなどによる方谷の産業振興政策により、松山藩の財政は瞬く間に立て直されていきました。方谷起用に拠る藩政改革を高く評価された勝静は幕閣でも中心的な存在となっていきます。方谷は勝静の右腕となるべく江戸へと呼び寄せられましたが、時流のうねりの中で、様々な混乱を目の当たりにし、幕府が遅くない未来、いずれは滅びゆくものであると強く感じるようになっていました。そのような幕府に忠義を尽くすより、今目の前で喘いでいる自藩の民衆を救って欲しい…それが方谷の切実な思いでしたが、勝静は何よりも最後まで幕府への忠義を貫きたいと強く願っていました。勝静は、最後の将軍となった慶喜からも強く望まれ、ますます幕閣の中心として大きな役割りを果たしていくことになりますが、鳥羽伏見の戦いでの敗戦で幕府は崩落の一途を辿り、そのような中でも勝静は幕府のために戦い、最後の砦、函館五稜郭まで転戦を続けたのです。その一方、何としても今喘いでいる目の前の民衆を救うため、方谷は無血開城し、藩主の勝静の許可なく降伏しました。これをうけて、勝静ももう成す術もなく、程なくしてこれに従うこととなります。その後、方谷は新政府からその才能を高く買われて、何度も出仕を求められましたが、勝静の許可なく降伏し、城を明け渡した責任をとって毅然としてこれに従うことはなく、新しい世代の育成にその心血を注ぎました。戦後の勝静は銀行の設立に携わったり、上野東照宮の神官を務めたと言われています。


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松ヶ峰門跡。


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この白い柵に囲まれた木が目印です。


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西軍が六道之辻を突破して城の南西から攻め入り、20日第二次宇都宮戦争勃発。この松ヶ峰門周辺も激戦区となり、この戦闘で秋月登之助や土方歳三も負傷して旧幕府軍は日光への撤退を余儀なくされるのでした。


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中村武雄の『戊辰桑名戦記』には、
『明神山は宇都宮の要地にて、此を敵に奪われては片時も城は守るべからざる故、我藩は七連隊と急に城を出て、明神山や八幡山を守りけり。城中にては手痛く拒ぎ、戦い辰の刻より未の刻に至りけれども、敵は未だ退かず、頗る疲労に堪ざれば、我兵に応援せよと云来る。是に於て我藩の二番隊は明神山を守り、一番隊は城内に入り、先づ其景況を見に、敵は外城の屋に據り、味方は城中の竹林中に伏し戦い、正に酣(たけなわ)なり。我兵も同じく竹林中に進み行くに、味方の死骸前後に横り、飛丸竹を碎て其勢殆んど危険なり。

総督大鳥思えらく、我等恢復を以て志となせば前途甚だ遠し。且江戸を脱するの日、神廟に謁するを以て名となす。専ら一城に致すべからず。況や此城、会津と隔遠し粮食弾薬継ぎ難し。一度敵を破るとも長く保つべきに非ず。死を此に致すは極愚なりして、退城の令を下しけり。是に於て味方引揚の喇叭を吹し処、惣軍一時に引退き、敵は継て城に入り退口殆ど切迫なり。此時、明神山も戦い既に始ると云とも、此は無双の要地なり。我兵泰然として動かず。味方尽く引揚たる後、徐に殿りして退きしに、敵軍も追●する事能わざりしなり。

此戦に土方歳三、足の指を傷きしか早く城中を出て会津を指て退きたり。(新選組裏話)』
とあり、松ヶ峰門周辺の竹林では敵も味方もわからないくらいの激戦になって、土方歳三はその竹林のあたりで被弾し、足指に怪我を負ったというのがファンの間では定説となっています。今では駐車場になっていますが、この周辺にその竹林があったようです。


今回は負傷した土方が移送された今市宿跡に行けず、餃子も食べられなくて残念でしたので、またそのうち行きたいと思います。

色々なお話を聞かせて下さった『満福寺』さん、大変お世話になりました、本当にありがとうございました。


参考HP:『會東照大権現』
『いり豆 歴史談義』