徒然探訪ー石田ー | 徒然探訪録

徒然探訪録

御訪問ありがとうございます!!ぜひ、またお越しくださいませ!!

高幡不動尊をお参りした後は、『多摩モノレール』で『万願寺』へ。万願寺駅周辺には『土方歳三資料館』や土方歳三のお墓がある『石田寺』、土方一族に所縁のある『とうかん森』などがあります。

photo:01


photo:02


▲『石田寺』。土方歳三の碑やお墓があります。


このブログの記事には題材のわりにお墓参りしましたという記事が少ないですが、顔も知らない人間にお墓参りされるのは、お墓を守られている方もあまり良い気分はしないのではないかと思って、敢えて余程のことがない限りしてきませんでした。ですが、今回はお詫び(このブログの内容が未熟なのにも関わらずよくテーマとしてしまっていたので)と、このブログは『土方歳三の足跡を辿る』というテーマを一番多く書いてきたので、一年間書き続けられた感謝を込めて手を合わせることだけはさせていただいてまいりました。このブログもこれからの一年色々な面でもっと勉強し、少しでも良いクオリティにしていけたらと思っています。


photo:04


photo:05


▲石田寺のカヤ
『多摩川と浅川の合流点近くに位置する石田寺のカヤは本堂右前にあり、樹高約26m、目通り幹囲4.2m、根元から2.5mの高さから三岐し、共にやや北に傾き直生している。枝張りは四方に約5m、かつて南西に張り出した太い枝を切断したとのことであるが、今はその跡すら見出せない。樹勢は極めて良好である。樹齢は400年以上と推定される。
 カヤはイチイ科の常緑高木で雌雄別株であるが、当所のカヤは雌株の方である。

昭和50年(1975)年 10月1日指定
日野市教育委員会』

樹齢400年とのことですから、この木は土方歳三の生家に近いところにありましたし、彼も見上げたことがあったかもしれません。


photo:06


photo:07


photo:11


▲『とうかん森』

『後方の稲荷は、古くから地元の土方一族(十家余)が祀ってきたもので、宝永5年(1708年)の記録にもそのことが書かれている。「とうかん」の呼称は稲荷、あるいは十家の音読みに由来するとも伝えられる。
 森はムクノキ5本、カヤ2本の計7本の大木を主体に、フジ、ヒイラギ等が加わって形成されている。
 ムクノキはいずれも大木で、高さ20mを越すものもある。カヤは2本とも雌株で、内祠に近い1本は数本の合体木となり、非常に太くなっている。これらの大木の内数本は、樹齢250年と推定されている。      

昭和50年(1975年)10月1日指定
日野教育委員会』

こちらも土方歳三が生まれた時にはもうあったものだということですから、彼が幼少の頃から生活していたこの地で同じ時代を経てきたことになるのでしょうか。


photo:10


▲『土方歳三資料館』。土方が若かりし頃、行商の折に背負った薬箱や、新選組として働いた期間身につけていたといわれる鎖帷子、愛刀『和泉守兼定』などを所蔵しています。


photo:08



photo:09


▲『土方歳三資料館』の右隣には『幕末の石田村名主 伊十郎屋敷』跡があります。

『当家は隣家の先祖 源内の分家である伊三郎、伊十郎、久蔵は幕末三代村役人を務めた。
 伊三郎は弘化三年(一八四六)隼人家あわや流亡の折、名主として陣頭指揮し、現在地に移住させた。この洪水の七年前、十四歳の娘なかを本家喜六(隼人)に嫁がせていた。時に歳蔵は五才であった。
 多摩川の本流はさらに居村に迫り、安政五年(一八五八)伊十郎家も此の地に移った。
 石田村の歳蔵は在郷の若者に武芸を奨励し、特に分家の久蔵には近藤勇からの稽古への誘いの手紙を、此の長屋門を通り届けたと言われる。
 百四十五年の歳月が過ぎ、村の原風物は少なくなった。
 近藤や歳蔵の見覚えのあるものはとうかん森や石田寺の榧の木、建物では此の長屋門と母屋くらいになってしまった。
 (註)歳蔵は、宗門人別書上帳に記されている土方歳三の名である。
 
 平成十六年一月』

土方歳三もくぐったと伝えられる長屋門。近藤との出会い、それは土方にとって運命であり、その一生の路を決める一歩となりました。