永倉新八の生家があった地を巡る | 徒然探訪録

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先日『岡山から新八参上!』様より、長倉家の生家があった場所について伺う機会があり、そちらを訪れた際の記事です。

長倉家在地の変遷は新八が北海道から上京・滞在する際に館藩(旧松前藩)に提出した住所の記載から知ることが出来るとのお話でした。

長倉家は、もともと松前藩出入りの呉服商だったそうで、娘の勘子が12代松前藩主・資廣の側室となったことから士分に取り立てられたのでした。画家で松前藩家老の蠣崎波饗も勘子と資廣の間に生まれた子だそうです。この勘子は、永倉新八の大叔母にあたります。新八の父、勘次は150石の江戸定府の取次役を務め、長倉家は上士の家柄、松前藩の名門でした。ですが、新八は19歳の時に剣術修行継続のために松前藩を脱藩してしまいます。そして、本所にあった神道無念流百合元昇三道場に入り込み、浪人暮らしを始めるわけですが、この際松前藩きっての名門であった生家に万一の累が及ばぬようにと永倉姓に改めたのでした。

ちなみに今回私が見てきた長倉家生家というのは、明治期にあったとされる場所です。

私が伺ったところによりますと、
明治4年…浅草新寺町
明治6年…浅草新寺町
明治8年…浅草梅園院地中内
明治9年…向柳原町1丁目14番地
明治14年…向柳原町1丁目14番地
とのことでした。

明治4年に生家があったとされる浅草新寺町ですが、こちらは現在の元浅草1~4丁目にあたり、この付近は今でも多くの寺院が残っているようです。

明治8年の浅草梅園院地中内は、仲見世通りと伝法院通りがぶつかるあたりで、今ではカバン店が建っています。

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この場所から振り返るとスカイツリーが見えました。
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明治9年の向柳原町1丁目14番地ですが、こちらは現在の東神田3丁目にあたります。JR浅草橋駅から西へ線路沿いに歩き、神田川に掛かる左衛門橋と美倉橋の間の区間がこの場所にあたるようです。

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▲この付近からみた神田川

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▲現在の東神田3丁目の様子

もともとの出自が呉服商だからか、下町を転々としていたようです。

明治に入ってからの永倉新八の動きについて簡単にまとめておきます。

明治3年、藩医の杉村松伯の婿養子に入ることが決まり、翌年1月に杉村の娘、よねと結婚して杉村義衛と名を改めました。『浪士文久報国記事』はこの頃に書かれたもののようです。明治7年には上京し、元幕府御典医の松本良順の資金援助を得て、新選組慰霊碑の建立に奔走しますが、この慰霊碑建立には斎藤一の協力もあったと言います。この慰霊碑は明治9年に完成し、墓碑には発起人として『旧新選組長倉新八改 杉村義衛』と刻まれています。慰霊碑に刻まれた名は『永倉』から『長倉』に再び改められていますが、この頃にはもう松前藩に帰参しており、生家に累が及ぶというような心配もいらなくなっていたからでしょう。慰霊碑建立後は再び北海道に戻り、明治19年まで樺戸集治監の剣術師範として勤務しています。退職後に再び上京し、現在の白山通りのあたりに住みながら、牛込で剣術道場を開きました。この牛込はかつて試衛館があったところです。剣に燃え、日本の未来を語りあった試衛館での青春の日々、新選組として共に命懸けで戦った近藤らのことは常にその心にあったことでしょう。それから77歳で亡くなるまで、新選組の語り部となり、多くの貴重な回顧録を残しました。これにより、生々しい当時の戦闘の様子や隊士たちの姿などを現代の私たちも垣間見ることが出来るのです。

長倉家の生家についての情報を下さった『岡山から新八参上!』様に心よりお礼申し上げます。


参考文献:『新選組隊士録』相川司著(新紀元社)
参考HP:『無二無三』あさくらゆう