新選組の洋式化の遅れに対する自責もあったかもしれない。
それからの土方は、新選組の洋式化を急いだ様子もあり、自身も断髪して洋装に改めている。
そして、新選組とは少しずつ一線を置くようになり、旧幕府軍の中では洋式化の進んでいた伝習第一大隊との関係を深めていくこととなる。
鳥羽・伏見の戦い後に建立されたと見られる愛知県岡崎市法蔵寺の連刻碑に刻まれた名前を挙げる。
【幕臣連刻碑リスト(慶応四年一月~四月頃)】
土方歳三/戸村静一郎/小笠原新太郎/内田良太郎/鈴木蕃之助/佐藤善次郎/鈴木源兵衛/?田幸之助/ 松下信三郎/市橋鐘太郎/大田政一郎/建立者・内山勝行(勝利)
土方と伝習第一大隊との初共闘は慶応三年の伏見奉行所でのこと。
このリストに挙がっている小笠原新太郎、内田良太郎、鈴木蕃之助は伝習第一大隊士官である。
また、戸村静一郎、鈴木源兵衛、市橋鐘太郎、大田政一郎は回天隊士官であり、回天隊から伝習第一大隊へと異動となっているのが佐藤善次郎、?田幸之助、内山勝利の三名。
このリストにも名前が挙がっている伝習隊第一大隊士官内田良太郎は『徳川家回復』の為に土方に共闘を申し入れている。
『私は主家(徳川家)の回復に向けて、兵を挙げようとしました。……事態が切迫したので、部下の兵卒百人余りを引き連れて脱走しましたが、若年で智力も乏しい。そのため、人望のある人物を上に仰ぎ、その付属になって行動をともにしようと思い、新選組の隊長・土方歳三に相談して、我が隊の隊長に押し立てました(意訳、望月光蔵「夢之うわ言」)』
戸村、小笠原、大田は北関東での闘いにて戦死、内田、鈴木蕃之助、佐藤、?田は土方と共に蝦夷に渡り、土方と同じく一本木関門で戦死した。このことからもこの碑に名が刻まれた彼らと土方との濃密な関係が伺われる。
『(16日)夜、土方始、皆下野国下妻井上辰若丸陣屋に行て、郭外四方に兵隊を撒し取囲。大手に兵隊又大砲一門を以て進軍、土方歳三搦手兵隊を以、秋月登之介其の外配兵之陣列を整止、東明るを待。夜明て下妻之郭内外大に驚恐し、周章奔走する之折柄、軍目井上誠之進、峯松之助、倉田巴※、松田玄蕃、郭中に進とき、大手を開、辰若丸臣と共出通郭中に入、玄関に伏扣、先に入て応接の意を問。井上曰、今般不斗事件より江戸御開城と成て、君令恥辱請、忠臣必死す。且つ再城望欲起云々。(『谷口四郎兵衛日記』より)』

▲下妻陣屋跡。現在の下妻第一高校付近にあったと言われている。土方は宇都宮に入る前にこの下妻陣屋を包囲し、約30名の人員を提供させている。

▲『陣屋公園』。陣屋という地名が今も残る。
参考文献:『新選組隊士録』相川司著(新紀元社)
参考HP:『會東照大権現』