新選組がそれでもわずかな活路を見出すためには、もう、近藤自身が出頭するほかなかった。
近藤は板橋の総督府に移送された。
だが、板橋には油小路での恨みを募らせた御陵衛士残党がいたこともあり、すぐに近藤の正体は露見してしまう。
坂本や中岡の暗殺を新選組の仕業とする土佐藩は近藤の斬首を強く主張した。
土方の、北関東での奮戦も、かえって近藤の不利に働く結果となってしまった。
そして、四月二十五日。
板橋の刑場で、斬首。享年35歳。
首のない、近藤の遺体は、娘婿の勇五郎らによって堀り起こされ、菩提寺の竜源寺へと、ひっそりと埋葬された。
『私達七人が、用意して行った鍬で、土を二尺ばかりも掘り下げると新しい筵が一枚出て、その下に勇の死体があったのです。
首は素よりありません。胴体だけがうツ伏しになっている。それが白い肌着一枚と下帯だけなので吃驚しました。
斬られる時は、確かに黒の紋付羽織に亀綾の袷を着ていたのです。これは、此年正月京都から江戸へ戻って来て、牛込の自宅にいる時に着ていたものなので私の見覚えのあるものなのですが、こうして掘って見ると、肌着一枚なので本当に驚きました。
父は、
「刑場で剥ぎ取るのだ」
といって、別に気にもとめず、
「ただ、ここにある死骸は、みんな首がないのだから他人の死骸と真違わないように」
と、頼りに、この首のない勇を改めました。
何より証拠は、左の肩の鉄砲傷の痕です(伏見黒染で伊東甲子太郎の残党に狙撃された傷。)これを探すと、只今の一銭銅貨位の大きさで、親指が入る程深くなっていました。
七人がかりで、棺桶へ入れようとするが、何しろ三日もたっているので、ずるずるして、腕でも脚でもうっかりつかまれぬのには困りました。
父は、これを抱くようにして、
「残念だろう残念だろう」
と、泣きます。私はもとより、縁もゆかりもない駕かきまでが声を上げて泣きました。
虫の声がします。火事でもあるのか江戸の空が少し明るく見えていました。
すっかり棺に納めるまでに三時間ばかりもかかりました。ぽつりぽつりと雨が落ちていました。
父は、改めて、番小屋へ声をかけて、それから、大急ぎで、上石原へ戻ったのです。夜が更けている上、通る人もないので、ただ私達の足音だけが、さッさッという響がして、何んとも云えぬ淋しさでした。
雨は、一寸との間、少しはげしくなっていたが、道の二里程も来た頃に、ぱったり止んで、間もなく星が二つ三つ……それが次第に多くなって、夜の白々明けには日が輝いて来る。竹林を掩うて霧の深い朝でした。
上石原についたのは、明けの六ッ半(七時)。かねて宮川の家へは入らず、すぐに菩提寺の竜源寺(現在多摩郡三鷹村大沢竜源寺)へ行く事にしてあったので、もう寺には、家の者達が集まって、門前へ出ていました。
この首のない私の養父勇を埋めたのが、只今の竜源寺の墓であります。勇の墓は台石共高さ四尺五寸位、幅一尺六七寸。その隣が、勇の実子で私の妻となった瓊子の墓(明治十九年六月二十七日年二十五で没)。それから、瓊子と私の間に出来た久太郎の墓(日露戦争で戦死、騎兵上等兵)などが、同じ処にあるのです。
勇の法名は「心勝院大勇儀賢居士」と申します。この外、会津にも墓というのがあると聞きましたし、板橋の刑死跡には永倉新八の建てた碑があり、南多摩郡七生村の高幡金剛寺境内には「両雄殉説之碑」があります。』
▲『新選組遺聞』子母澤寛著(中公文庫)「近藤勇五郎老人思出ばなし(昭和四年五月)」より

▲竜源寺



▲竜源寺の門前には近藤の胸像と近藤勇と天然理心流の石碑が建てられている。
【竜源寺】
三鷹市大沢6-3-11
近藤の生家跡にバス停から向かえば、生家に行きつく前に右手にこれらの碑が立つ門前が見えてくる。