一月十五日船が無事品川沖に到着すると、隊士たちは一端品川宿の釜屋という旅籠へ入り、そこから二十日には丸の内大名小路鳥居丹後守役宅を宿舎として割り当てられ、移り住んだ。
だが、この頃には取り調べがかなり厳しくなっていたため、怪我をしていた近藤は治療のため、ひっそりと小舟で、神田和泉橋の医学所へと入った。『近藤は御典医松本(良順)先生方へ、惣司(総司)同場にて療治に罷りあり(佐藤彦五郎書簡)』とあり、この時沖田も近藤と一緒に医学所に入り、さらに浅草今戸八幡宮の松本良順自宅に移って治療を続けたようである。
『江戸へ帰ると、丸の内大名小路の鳥居丹後守役宅の宿舎へは入らず、近藤の頼みで浅草今戸八幡宮の典医頭松本良順の自宅の一室で治療を受けていたが、二月の末になって、淋しい江戸も春らしくなると、郊外千駄ヶ谷の或る植木屋の離れ座敷を借りて、ここに駕籠にゆられて引移った。
庭に梅の木が一ぱいあって、遅れ咲きがまだいい匂を漂わして咲いていた。たしか「植甚」というのであったが、家の周囲は広々とした畑と田■(変換不可となってしまいました…申し訳ありません、読みはたんぼ)で、雑木林の森がどっちを向いても青く見えた。
わら葺き屋根で、八畳か十畳位の座敷、南と東に向いて粗末な縁側がついていて、一日一ぱい障子に陽が当って、時々鳥影がさした。(近藤勇五郎翁談)』
▲子母澤寛『新選組遺聞』より
『植甚』こと植木屋平五郎の戸籍は野口達夫氏によって発見されている。
『住所 四谷区大番町八九番地
柴田平五郎
天保七年十一月二十三日生
明治四十五年七月十日死亡
職業 植木屋』
とされており、この住所は現在の新宿区大京町二十九番地にあたる。

▲国立競技場を左手に見ながら、外苑西通りを右折。

▲高架橋の下をくぐり、そのまま直進。

▲道路が赤茶色にかわったあたりにマンションが見える。


▲池尻橋の欄干が残されるのみで当時の面影はもはやない。
千駄ヶ谷駅から徒歩で約15分くらいのところにその地はある。
参考文献:『新選組隊士録』相川司著(新紀元社)
『新選組遺聞』子母澤寛著(中公文庫)
『新選組100話』鈴木亨著(中公文庫)