沖田総司終焉の地と言われる今戸神社は、今では縁結びの神様として恋愛成就を願う女性達に人気のパワーススポットとなっているが、残念ながら彼自身の初恋は実らなかったようだ。
近藤や土方に比べ、沖田の女性に関するエピソードはそう多くない。
将軍家茂の上洛の供に加わった折、つき合いのようなものでそんな遊びをしたという記事が残るくらいだ。
主に有名なものは二つ。一つは試衛館時代のものだ。
『勇先生有養女、気豪常佩刀、愛変於沖田総司之勇、請為妻把箕箒、総司固辞、女自愧、以刀刺喉、而不殊、得復生、後嫁人云、(慎斎私言)』
これは『新選組余話』に『総司にふられた娘』として書かれている。
『近藤勇に一人の養女があった。名前や年齢は不明であるが、試衛館道場の掃除や洗濯などの世話をしていた。娘にかかわらず男まさりの女で利発そうな顔をしていた。常にふところに短刀を忍ばせていた。しかし、年ごろのため、内弟子の沖田総司にひそかに恋こがれていた。
あるとき娘は、考えたすえに意を決して、遠まわしに、総司に向かって結婚して欲しい旨を伝えたところ、
「私はまだ修行中の身ですから」
と言ってふられてしまった。
娘は、総司にあっさり断られて非常にショックを受け、恥じらいのあまり短刀を喉につき刺して死のうとした。
しかし、発見が早く致命傷ではなかったので、娘は危いところ一命をとりとめることができた。
のちに、近藤勇の口聞きで他家へ嫁にいったという。(新選組余話 小島政孝)』
もうひとつは『新選組遺聞(子母澤寛)』にある『恋の沖田』という一文である。
『沖田総司は十二三の頃から、近藤道場の内弟子になったので、全く他人のような気もしませんし、千駄ヶ谷の植木屋へ移ってから、成願寺へわざわざ駕でやって来て、幾日も幾日も一緒にいるというような風です。
新選組の人達は、相当女遊びをしたようでしたが、沖田は、余りそんな遊びをしなかった代りに、京都で、ある医者の娘と恋中になったのです。これは沖田も話していましたし、勇も、母(つね女)に話しているのを聞きました。しかし勇は、自分達の行末を考えていたためか、或時沖田へしみじみと訓戒して、その娘と手を切らせ、何んでも、勇自身が口を利いて堅気の商人へ嫁入らせたとの事でした。
沖田は、よく私へこの娘のことを話していました。ふだん無駄口ばかり利いている男ですが、この娘のこととなると、涙を落して語ったものです。(新選組遺聞 子母澤寛)』
そして、もう一人、光縁寺の過去帳に、
『土 慶応三年四月二十六日
真明院照誉貞相大姉 沖田氏縁者』
と記載されている女性がいる。過去帳の添書には『大阪 酒井意識弔』とある。
この女性は新庄藩御徒士小頭、酒井鑑左衛門意章の妻きんだと言われている。
きんには文久二年、沖田らが上洛する前年に生まれたゆきという娘があり、過去帳の添書にある意識というのはその婿養子だという。
きんは油小路の旅館里茂の娘で、離婚して壬生の近くに住んでいたことがあった。
沖田は壬生にいた頃、恐らく彼女のもとへ通っていたのだろう。
沖田は近所の子守や、子ども相手に鬼ごっこをしてやったり、壬生寺の境内を駆け回ったりして遊んでやったというから、子守の連れた子の中にでもきんの娘がいたりして、そこから知り合ったりしたのかもしれない。
『新選組遺聞』の近藤勇五郎老人思出ばなしにある『恋の沖田』というエピソードは恐らく、沖田が試衛館時代の初恋を思い出して語ったものではないかと思う。
沖田に恋こがれていた娘は、大阪の医者・岩田文硯の娘でコウといった。彼もコウに思いを寄せてはいたが、近藤としては彼女と同じく養子に迎えた周平にゆくゆくはコウを娶らせて跡を継がせるつもりもあったから、沖田にしみじみと訓戒して、その娘と手を切らせようとし、沖田もそれに従った。しかし、その後コウの自殺未遂などがあり、世間体なども配慮して他家に嫁がせたということだろう。勇五郎老人がかつて見た沖田の涙は、命をかける程に自分を愛してくれた初恋の人を思って流したものだったのではないだろうか。
参考文献:『新選組100話』鈴木亨著(中公文庫)
『新選組余話』小島政孝著(小島資料館)
『新選組遺聞』子母澤寛著(中公文庫)
『新選組隊士録』 相川司著(新紀元社)