春雨の候桜華舞落つー沖田総司散華の地を巡る①ー | 徒然探訪録

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『それ剣術とは、敵を殺伐する事也(剣説)』

わずか9歳で江戸市ヶ谷試衛館の内弟子となった沖田惣次郎。『沖田家古文書』には彼が12歳のときすでに白河藩の指南役と試合をして勝利を得たと記されている。15歳にして近藤周助と多摩へ出稽古に行く程に腕を上げていた。剣に関しては天性の資質もさることながら、道場ではいつも一番最後まで残って稽古したりするストイックな努力家でもあった。彼は江戸中期の武芸者、平山行蔵を崇敬していたという。平山は朝から晩まで学問の研鑽と剣術の稽古に励んで、四季を通じて袷一枚で過ごし、夜は夜具を用いず板の間で寝たと伝えられている。文頭の一文は平山の著書から。沖田の剣にも通じるものがある。そして稽古を重ね、若干20歳にして塾頭となった。

『剣術を遣う形は、師匠の近藤勇そっくりであった。その上、掛け声までが、細そい肝高いよく似たもので、ただ太刀さばきに少しうるさい癖があり、勇が、少し腹を突き出し加減の平星眼であったに比し、沖田は、太刀先きが、下が気味で、前のめりの構をとった。

 天然理心流の定法の平星眼は、左の肩を引いて右の足を前に半身を開き、勇でも然うだったが、沖田は殊に目立って、剣の先きが右寄りになっていた。土方歳三は一層ひどかった。
 勇は時々、刀を下げて、面から胸を開け放しに尾をたれるような構もした。斬り込んで来る敵の刀の力を利用して逆にこれをすり上げて、面へ行く手であって、沖田も道場ではよくこれを真似ていた。

 この流の「突き」は必らず三本に出る。しかも刀の刃を下とか上とかへ向けて行く大ていの剣法と違って、勇をはじめ、刀を平らに寝せて、刃は常に外側へ向け、突いて出してもし万に一つ突き損じても、何処かを斬るという法をとった。

 やっ!といって一度電のように突いて行って、手答があっても無くても、石火の早業で、糸を引くように刀を再び手許へ引くと、間一髪を容れずにまた突く、これを引くとも一度行く。この三つの業が、全く凝身一体、一つになって、即ちこの三本で完全な突の一本となる事となっている。

や、や、や、と足拍子三つが、一つに聞こえ、三本仕掛けが、一技とより見えぬ沖田の稽古には、同流他流を問わず、関心せぬものはなかった。(日野宿彦五郎嗣子佐藤俊宣翁談) 』
▲『新選組異聞』子母澤寛著(中公文庫)より引用

だが、池田屋事件前後から彼を病魔が襲う。
鳥羽・伏見の戦いにも参戦出来なかった。

慶応四年、鳥羽・伏見の戦いに敗れた新選組は海路より江戸へ帰還。この船の中に沖田もいた。

『江戸へ戻る富士山艦の中でも寝たきりであったが、他の病人達と相変わらず戯談口を利いて、笑ってばかりいた。
「笑うと後で咳が出るので閉口するな」といったのを近藤が聞いて、
「あんなに死に対して悟り切った奴も珍しい」
と、後で、牛込廿騎町の自宅で妻のつね女へ話したことがある。』
▲『新選組異聞』子母澤寛著(中公文庫)より引用

沖田は一旦神田和泉橋の医学所に入り、近藤の取り計らいでその後さらに浅草今戸八幡宮の松本良順自宅にて治療を受けたと言われている。

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▲今戸神社。沖田終焉の地との表札が立つ。浅草駅から約徒歩20分。


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▲恋愛成就を願う可愛い円形の絵馬がぎっしりと。


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▲平日にも関わらず、若い女性の参拝客が絶えることはなかった。


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▲頭を撫で、写真を待ち受けにすると恋が成就するのだとか。恋する乙女はぜひご利用下さいませ。


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▲とにかく女性には嬉しい仕様が沢山、今では恋愛成就のパワースポットになっている。

【今戸神社】
 アクセス:東武浅草浅草駅から徒歩20分
 住所:台東区今戸1-5-22
 お守り、絵馬などの販売は9:00~16:00
 縁結びの絵馬は¥700

参考文献:『新選組隊士録』 相川司著(新紀元社)
『新選組遺聞』 子母澤寛著(中公文庫)