四月三日、新政府軍に囲まれた流山の本陣で土方は近藤にそう言ったのだった。
四日の『勝海舟日記』。
『土方歳三くる、流山の顛末を云う』
近藤に出頭を促したその次の日に、土方はもうすでに近藤の助命嘆願に動いていた。
大久保=近藤と身元が割れなければあるいは…
徳川家首脳に鎮撫隊・大久保大和(近藤勇の変名)の任務、身元を保証させる…
これが土方が描いた青写真であった。
非情にも思われるかもしれないが、近藤に自首を促した時点で一番実現可能な、そして一番妥当な戦略だったと言えるだろう。
しかし、近藤が移送された板橋には、加納や武川など近藤に恨みを持つものも多くいた。彼らが大久保大和の正体を黙っているはずなどなく。
薩摩と土佐の意見対立の中、四月二十五日、近藤勇、板橋にて斬首。享年35歳。
『右の者(近藤勇)、元来浮浪の者にて、始め在京いたし、大久保大和と変名し、甲州並びに下総流山にて官軍に手向かいいたし、あるいは徳川の内命を承り候などと偽り唱え、容易ならざる企てに及び候談、上は朝廷、下は徳川の名を偽り次第、その罪数うるに暇あらず、死刑に行い、梟首せしむるもの也(戊辰戦争新聞)』
四月二十八日、宮川勇五郎らが近藤の遺体を内密に掘り出したとも言われる。
その後、近藤の遺品あるいは遺髪か何かが密やかに天寧寺へ埋葬されたと思われる目撃談が伝えられた。戊辰戦争直後の愛宕神社宮司の見聞録にも記されている。
近藤の墓碑には『貫天院殿純忠誠義居士』と刻まれた。前述の『戊辰戦争新聞』に書かれた近藤への評価を見ればわかるが、この墓の建立に携わった者が当時出来た近藤への精一杯の真心、それがこの戒名として遺されている。

▲近藤の墓への道標。
土方らは愛宕神社からわざわざ険しい道程を選び、近藤の遺品を埋葬したのだろう。
もう誰からも追われることなくひっそりと眠らせてやりたい…恐らくきっとそんな気持ちから、敢えて歩きづらい道を通らねば近づけないその地へと。
【天寧寺】
福島県会津若松東山町石山天寧208
TEL:0242(26)3906
アクセス:まちなか周遊バス『ハイカラさん』『あかべぇ』奴郎ヶ前下車徒歩10分
『ハイカラさん』時刻表
会津若松駅発
8:00/8:30/9:00/9:30/10:00/10:30/11:00/11:30/12:00/12:30/13:00/13:30/14:00/14:30/15:00/15:30/16:00/16:30/17:00/17:30
奴郎ヶ前発
8:31/9:01/9:31/ 10:01/10:31/111:03/11:33/12:03/12:33/13:03/13:31/14:01/14:31/15:01/15:31/16:01/16:31/17:01/17:31/18:01
『あかべぇ』時刻表
会津若松駅発
9:15/9:45/10:15/10:45/11:15/11:45/12:15/12:45/13:15/13:45/14:15/214:45/15:15/15:45/16:15
奴郎ヶ前発
9:34/9:57/10:34/10:57/11:34/11:57/12:34/12:57/13:34/13:57/14:34/14:57/15:34/15:57/16:34
『奴郎ヶ前』バス停近くに『お秀茶屋』がある。ここで一服されてみるのもよいのではないだろうか。

▲お秀茶屋。

▲一本一本炭火で手焼きした田楽は土方が生きた時代も超えた味。
当ブログの『お秀茶屋』に関する記事はこちら
参考文献:『新選組隊士録』 相川司著(新紀元社)