土方歳三の足跡を辿るー福島・東山温泉①ー | 徒然探訪録

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宇都宮城攻防の際に怪我を負って会津にて療養していた土方だったが、慶応四年七月までには戦線に復帰したようだ。
『戊辰ノ変夢之桟奥羽日記』によれば、六月二十一日の項に『越後出陣の土方歳三郎(徳川氏の脱士)より形勢報知あり』、七月二十一日の項には『古屋佐久衛門と土方歳三は、脱兵を引率して越後へ発し、奮励している由(意訳)』とされている。

四月下旬に会津市街に入った土方は七月に戦線復帰するまでの間、宇都宮の攻防で負った傷を癒す為、東山温泉に湯治に行ったと伝えられている。東山温泉は約1300年前に名僧・行基によって発見され、古くは『天寧寺の湯』と呼ばれていた。この地名にも出てくる『天寧寺』には土方が建立したとされる近藤勇の墓がある。東山温泉に通い、湯治で怪我の回復を急ぐかたわら、今は亡き同士を偲びつつも新たな戦いの場を探していたのだろう。

『新編会津風土記』によれば、この温泉地に会津藩は湯小屋『総湯』という共同浴場を設け、地元庶民や一般通行人にも開放し、補修費用なども藩が負担したという。また、藩主松平家の別荘、上級藩主・下級藩主の保養所もあったため、湯治場として賑わった。幕末には遊郭を兼ねる宿屋も現れ、歓楽街としての色合いを濃くしていったが、戊辰戦争の際には旧幕府方の兵士たちもよくこの温泉地を利用していたという。

東山温泉には土方が湯治したとされる源泉地が複数存在している。

①『旅館 向瀧』
 向瀧はかつて『きつね湯』と呼ばれ、会津藩上級藩士の保養所とされていたから、当時伝習第一大隊の隊長格にまでのし上がっていた土方が、藩の勧めにより、ここで入湯したことも考えられる。
②『庄助の宿 瀧の湯』
 土方宿泊した清水屋旅館のある若松市街から東山温泉へ徒歩で通うのにはかなりの距離がある。当時足を負傷していた土方にとって少しでも移動の負担を減らすためには、市街から最も近いこの源泉地が都合が良かったかもしれない。なお、ここは『総湯』跡地と言われている。
③『くつろぎ宿 新瀧 別館不動瀧』
 東山温泉でもひときわ目をひく土方の壁画が描かれた建物がある。それが『くつろぎ宿 新瀧 別館 不動瀧』だ。ここでは土方が入ったとされる『猿の湯』という岩風呂が公開されている。この宿のHPにも『戊辰戦争の折、療養中の土方が訪れ、湯治の岩風呂から川に飛び込んだと逸話が伝えられている』と謳われており、実際に『川に飛び込んだ』ことを記す文書が発見されているとも聞いた。現在では設備上の理由から使用されておらず、保存に努めているとのことだ。幕末当時の写真や絵図からそれらしい建物が確認出来るのはここだけとも言われている。ちなみに『新瀧』は松平家の別荘がかつてあった場所に建てられている。

あの大鳥圭介でさえ、農兵募集のために若松を訪れた際、『此頃は別して繁昌市中にも娼妓体の者多く城東に天寧寺東山とて温泉場あり、此節は諸国脱走人群最盛なるよし、余は多事なりしに因て此堺に遊ぶ能わず遺憾不少』と日記に記しているくらいである。この頃の土方についての記録はほとんど残されていないため、詳細についてはわからないが、会津若松に二か月近く滞在した土方が、幕府方の将兵も多く利用したこの東山温泉に一度も訪れなかったというのは不自然だろう。

【参考文献】
 『新選組隊士録』相川司著(新紀元社)
 『ふぃーるどわーく 会津 西』(歳月堂)
【参考HP】
 向瀧 公式HP
 くつろぎ宿 新瀧 公式HP
 庄助の宿 瀧の湯 公式HP