土方歳三の足跡を辿るー福島・会津若松・清水屋跡ー | 徒然探訪録

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下総国流山で近藤に出頭を促した土方は、新選組本隊を安富に託し、これを会津に向かわせ、自身は少数の隊士を連れ、江戸に潜入、勝海舟らに近藤釈放を働き掛ける。しかし、これが聞き届けられることはなく、四月十一日江戸城無血開城。

その後土方は下総国府台で島田魁らわずか六名の隊士を連れ、新政府軍からの要請に反発した榎本武揚らで構成された旧幕府陸軍に合流、この大がかりな脱走に参加。
伝習第一大隊の士官と事前に共闘の約束をかわし、隊長格へと押し立てられたのだ。部隊は大きく三つに分けられ、その中でも中核となる前軍の参謀に抜擢されている。隊長は秋月が務めたものの実質的にはこれに次ぐポジションにあたる。

土方らの所属する前軍は、下妻陣屋、下館城を抑え、四月十九日には宇都宮城を一旦は攻め落とす。
『土方歳三は常野(常陸・下野)奥羽の各所において勇戦、衆目を驚かす。なかんずく宇都宮攻撃の働きなど、官軍にも寒胆せしむる程なり(「新撰組始末記」)』とさえ言わしめる程の戦いぶりだった。

しかしすぐさま新政府軍の反撃にあい、隊長の秋月、土方ともにこの時の戦闘にて負傷。土方は歩けない程の重症を足指に負ってしまった。宇都宮城ももちろん新政府軍の手に落ちてしまう。

そして四月二十四日、秋月と土方は怪我の療養のため、伝習第一大隊半隊と病傷兵を引率しながら、会津若松に向かった。秋月は途中の会津田島に留まったが、土方らは若松の旅館清水屋に入る。

清水屋で床に臥す土方であったが、あの流山事件後、隊名を、そして自分の名誉を賭した戦いをやめようと考えるわけもない。同宿の望月光蔵を呼び寄せ、「汝等、吾れに与せよ」と迫ったが、望月はこの時の土方の言動を傲慢とし、これを聞き入れなかった。これに対し土方は、望月が自分の命令を断ったことに憤慨し、枕を投げつけ、「去れ」と怒鳴ったともいう。

あの江戸城登城時、依田に語った通り、洋式の伝習第一大隊に軸足を移し、土方はもはや新選組という枠組みに収まらない旧幕府軍脱走隊の隊長格にまでのし上がっていた。「新選組隊長山口次郎……、大将土方歳三殿」(『荒井治良右衛門慶応日記』)と記されるように。

慶応元年閏四月に記された『中島登覚え書き』の会津新選組名簿に土方の名前はもはやない。

『隊長:山口次郎/同助役:安富才助/軍目(目付):島田魁、久米部正親/歩兵頭取:近藤隼雄/差図役:伊藤鉄五郎、尾関泉、吉村新太郎/什長:蟻通勘吾、田村一郎、横倉甚五郎、吉村芳太郎、、近藤芳助、木下巌/下役:大橋半三郎、田中律造、三品二郎、阿部隼多、千田兵衛、鈴木練三郎/大砲差図役:志村武/大砲役:村上三郎/大砲護衛:白戸友衛/同役下:天野勝之進/器械方:岡田五郎、斎藤秀全/局長附小頭:漢一郎/同助役:中島登、松本捨助/平士:佐々木一、立川主税、小幡三郎、尾形俊太郎、大町通南太郎、菊池央、新井破魔男、池田七三郎、吉田俊太郎、清水卯吉、円尾啓二郎、丸山駒之助、石田入道、横山鍋二郎、田村録五郎、梅戸勝之進、小堀誠一郎、高橋渡、松本喜次郎、沢忠助、松沢之造、松沢乙造、畠山芳次郎、市村鉄之助、田村銀之助、上田馬之丞、玉置良蔵、加藤定吉、山野八十八』
▲会津新選組名簿(『中島登覚え書』)

この名簿のうち、沢忠助、松沢之造、松沢乙造、畠山芳次郎、市村鉄之助、田村銀之助、上田馬之丞、玉置良蔵、加藤定吉、山野八十八らは『土方家来』であり、日野の佐藤彦五郎の元へ件の写真を届けたと言われる市村鉄之助の名前も見られる。

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▲清水屋旅館跡。大東銀行会津支店脇に説明板と碑が建てられている。

清水屋旅館跡:〒965ー0042
       福島県愛堂若松市大町李一丁目1-38
アクセス:まちなか周遊バスあかべぇ『七日町白木屋』下車すぐ。七日町駅前で降りてもそう歩かない位置にある。

【あかべぇ時刻表・七日町白木屋前発】
10:00 /10:23/11:00/11:23/12:00/12:23/13:00/13:23/14:00/14:23/15:00/15:23/16:00/16:23/17:00

参考文献:『新撰組隊士録』相川司著(新紀元社)