斎藤一を偲ぶ路ー如来堂①ー | 徒然探訪録

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慶応四年一月、鳥羽・伏見の戦いで官軍に敗れた幕府軍は大阪に引き上げることとなり、新選組もそれに従い、江戸へ帰還。斎藤はこの際、新選組の一部及び負傷者の輸送指揮官を務めたという。斎藤は負傷していたため、医学所で近藤とともに治療を受けている。
新選組は負傷者の回復を待ち、二月には甲陽鎮撫隊を結成して甲府城接収に向かうが、ここでも敗北を喫し、再び江戸に逃げ戻る。
直後、近藤と永倉らの確執が表面化し、ついには、永倉・原田らの離隊となった。
永倉らの去った新選組は、五兵衛新田の金子邸に屯集する。
永倉の記した『浪士文久報国記事』に「斎藤一は手負病人の世話いたし、会津表へまいる」とあり、斎藤は六日の甲州敗走と永倉らの離隊のあった十一日の間に新参兵及び傷病者部隊を連れて会津へ発ったのだと思われる。

四月二十九日には、島田らを連れた土方が宇都宮での負傷療養のために会津に入り、安富の率いた本隊、斎藤の傷病者先発部隊が一堂に会し、会津新選組が結成された。この時最古参となっていた斎藤は隊長に、安富が副長に就任している。

斎藤一こと山口次郎が率いた新撰組は「奥州の玄関口」白河口にて官軍との防衛線に従事していたが、五月には白河城が官軍に奪取されてしまった。
『吾々隊は元斎藤四郎(一)と申す古参人、仮に隊長となり、……結局同城(白河城)守るを得ず、会津へ引き揚ぐ「近藤芳助書簡」』

七月に土方も戦線復帰、仙台行きを決めるも、官軍来襲に備えたい会津藩の要請を受け、一旦は母成峠の守備についている。
しかし、八月二十一日に官軍が大挙して母成峠を襲撃、土方率いる守備部隊は惨敗を喫した。
敗戦直後、土方は会津に見切りをつけたかのように母成峠には戻らず、ほぼ単身で仙台に向かっている。

八月二十一日の敗戦翌日、新撰組隊士たちは会津若松城下の宿、斎藤屋に泊った。恐らくここで、幕府への忠義を尽くすか、あるいは会津への恩義に報いるのか…新選組が今後進むべき道が話し合われたのだろう。
その際の宿泊名簿は『若松起草稿』に見ることが出来、そこには
隊長 山口次郎、軍目 安富才助、島田魁、久米部正親と記されている。
宿泊者は士官二十五名、歩兵十三人の合計三十八人であった。

土方派の安富ら以下九名は仙台行きを主張、しかし、隊長山口次郎は会津残留を主張した。
『土方歳三など、新選組の一部に、会津の大勢を救うべからず、仙台に至らんとする声ありしが、新選組が今日迄、会津の為、頗る恩顧を蒙りしを今日振り捨てるに忍びずとして、多数と共に会津に留まる(藤田家の歴史)』
山口派が多数であり、ここで新選組は最後の分裂を遂げた。

山口はこの直後、大鳥圭介にこのように心情を語っている。
『われわれは会津に来て、諸方の戦いで盟士の多くが戦死し、わずか十四人だけが残りました。新選組の隊名を後に起こそうという志はあるものの、ひとたび会津に来て、今まさに落城しようとするのを見ると、志を捨てるのは「誠義」ではないと思います。確かに仙台藩の塩松内蔵太とは「将軍山(母成峠)の一戦後に、仙台行き」と約束しましたが、このような事態になってはやむをえません。私は後顧を思わず、隊名とともにここに死のうと思います。(「谷口四郎兵衛日記」意訳)』


参考文献:『新選組隊士録』相川司著(新紀元社)