土方歳三の足跡を辿るー江戸城址ー | 徒然探訪録

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元治元年、一月。
鳥羽・伏見の戦いが勃発。
新選組は、幕府の洋式部隊伝習隊とともに伏見奉行所に配置されるも、この戦いで敗走する幕府軍に従って大阪へ。
そこから幕府艦隊に分乗して江戸へ帰還、再生を図ることとなる。

土方もそれに従い、一月十五日に江戸へ帰還、その翌日に早くも近藤とともに江戸城に登城している。

その際、佐倉藩士・依田学海と会話をかわした中で、鳥羽・伏見の戦いにおいては、「武器は鉄砲でなければいけません。我々は剣を佩び、槍を執って戦いましたが、一切用いることはありませんでした。」と述べたことが、依田の『譚海』に記されている。
  
『新選組を語る⑨-依田学海【よだがっかい】近藤・土方①-
 依田学海は幕末から明治にかけて、漢学者あるいは劇作家として知られていた。その依田が自身の著作である『譚海【たんかい】』に近藤勇・土方歳三のことを書いている。依田は天保4年(1833)生まれで、近藤より1歳年上であり土方とは2歳上になる。房総第一の佐倉藩に仕え、慶応3年(1867)には江戸藩留守役の要職にあった。
 依田が近藤・土方に会ったのは日記(『学海日録』)によると慶応4年1月16日のことである。新選組は鳥羽・伏見の戦いに破れ、近藤らは大坂から富士山丸で江戸にもどり、品川に上陸したのが1月15日のことであったから、江戸に戻った直後のことである。場所は江戸城であった。
 はじめ依田は2人を見たとき、なにか訳のありそうな人物がいるので、怪しんで尋ねたところ、近藤勇であることがわかったという。依田は鳥羽・伏見の戦いについて近藤に質問したところ、近藤はそばにいた土方に答えをうながした。鳥羽・伏見の戦いでは近藤に代わって新選組を指揮していたのは土方であった。依田の目に土方は「短身蒼白、眼光射人」の人物と映った。江戸に戻ったとはいえまだ戦場の余韻は残っていた。短い戦いではあったが、新選組は井上源三郎はじめ多くの同志を失っていた。
 土方は依田に説明した。この時、土方は、いまや武器は「砲」でなければ武器でない、刀や槍は役に立たない、と言ったと伝えられているが、正しくは「戎器(武器)、砲にあらざれば不可。僕、剣を佩【は】き(おび)槍を執る。一に用いるところなし」と言った。要するに「兵器は砲でなければならない。私は刀を佩【お】び槍をとっていたが使うことがなかった」と答えたのである。
 この後、2月半ばに新選組は上野寛永寺に謹慎した徳川慶喜の護衛にあたり、3月1日には甲陽鎮撫隊を結成して甲州道中を西に向かって進んでいった。筆者:日野市古文書等歴史資料整理編集委員会委員 沼 謙吉
原稿: 広報ひの平成16 年 07 月 01 日号より転載』
▲ひの歴史・史跡データベースより転載。

この頃から土方は自軍の洋式化を始め、マントやズボンの購入記録も残されており、二月三十日に甲陽鎮撫隊として江戸を立ったときにはすでに断髪し、洋装に改めている。

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▲中之門跡より入城。

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▲入ってすぐに見えるのがこの同心番所だ。厳重な警備のあとが伺われる。

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▲百人番所。ここに鉄砲隊を配備していた。

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▲天守台。


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▲天守台から見た本丸。本丸のあったあたりは今では綺麗な芝生に覆われている。大の字になって寝転び、昼寝をする男性の姿もちらほら見かけた。


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▲道なりに歩くと石室が見えてくる。大奥の調度品などを保管していたと言われている。

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▲松の廊下跡も今では説明板と小さな石碑を残すのみである。
 新選組の隊服のデザインのもととなった仮名手本忠臣蔵の衣装にもまつわるかの有名な話が残る場所だ。

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▲土方らもこのような景色を見ながら登城したのだろうか。


江戸城址
【 住所 】東京都千代田区皇居外苑1-1
【 電話番号 】03-3213-1111
【 拝観時間 】
 3月1日~4月14日 9:00~16:30(入園は16:00)
 4月15日~8月末日 9:00~17:00(入園は16:30)
 9月1日~10月末日 9:00~16:30(入園は16:00)
 1月1日~2月末日 9:00~16:00(入園は15:30)
【 拝観料 】入苑無料(出入り口は大手門・平川門・北桔橋門)
【 アクセス 】地下鉄各線の大手門駅(C13 b出口)から徒歩約5分
       地下鉄千代田線二重橋前駅(6番出口)から徒歩約10分
       JR東京駅(丸の内北口)から徒歩約15分