千駄ヶ谷池尻橋ぎわにあった植木屋平五郎宅の納戸。
沖田総司の終焉の地と言われる場所である。
現在の新宿区大京町27あたり。

▲某大学キャンパス周辺にあたる

▲当時もこのような景色が広がっていたのだろうか。
『師匠の近藤勇が、甲陽鎮撫隊を率いて、江戸を出発したのは、この三月一日。その二日前の二月二十八日、忙しい最中を勇は夜更けて、沖田の離れ座敷へ駕籠を飛ばせて別れにやってきた。
そして、
「骨と皮ばかりの総司の顔を見たら、俺はどういうものか涙が出て堪らなかったよ」
と、後で、廿騎町へ帰ってきてから、しみじみつね女に話していた。
この夜は沖田も声を出して泣いた。
近藤は、自分のふところから三十両、新撰組として十両(新撰組金銭出入帖、ニ月廿八日十両沖田渡)の金を与え、「甲府城を乗取れば、百万石はそのままわれわれへ下し置かれる御内意だぞ、それまで達者でいてくれよ」といって、帰った。
それから僅かに五十五日。この四月二十五日に、勇が板橋で刑死したことは、兄の林太郎がすぐに聞いたが、故意と、臥ている総司には知らせなかった。
それに、この家へ時々見舞に来る人達にも堅く口止めをしたので、みんな黙っているので、
「先生はどうされたのだろう、おたよりは来ませんか」
と、死ぬ前の日まで、それをいっていた。
沖田は二十六で死んだ。(新選組遺聞 子母澤寛)』
わずか九歳で誠衛館の内弟子となり、水汲み薪割りといった重労働をこなしながら、貧乏道場では食事も満足ではありません。そんな中、近藤は幼い沖田を気遣い、義父周助に隠れて、味噌を塗ったおにぎりをくれたりもした。彼はそんな近藤を最期まで気遣っていたのでしょう。

▲彼を偲ぶかのように白い花が咲いていました。
参考文献
『一個人 新撰組を旅する KKベストセラーズ 』
『新撰組遺聞 子母澤寛』
『京都新撰組案内 武山峯久』
『幕末歴史散歩 東京篇 一坂太郎』