森重氏はその後も土方歳三の写真について調べ、記事を書いている。
①いつ、どこで撮影されたのか。
『現時点での古写真情報でいえば、土方歳三の写真は函館で撮影されたと100%断言してもいいと僕は考えている。また、その撮影時期は明治元年十二月十五日から翌明治二年四月十五日の間ということになる。さらに撮影時期を絞り込めば、新政府軍が乙部に上陸して、土方歳三が二股口守備のために出陣するのが、明治二年四月九日のことであるから、明治元年十二月十五日から明治二年四月九日の間であろう。特にその間では土方歳三が松前から五稜郭に凱旋するのが明治元年十二月十五日から五稜郭において二度目の閣僚選出の入札(選挙)が行われた明治元年十二月二十八日の間が可能性が高いような気がする。(「写真が紐とく幕末・明治」2009.1.9「土方歳三写真の謎 その四」』
②誰が撮影したのか。
『佐藤清一著『函館文化発見企画1 函館写真のはじまり』によれば、田本が営業中の明治三十六年十二月十五日発行『北海道立志編第二巻』の田本研造の項に、「横山松三郎なる者ありて少しく写真術を会得せしを以て之に就て学び自研自究先づ専ら写真器械製造に工夫を注ぎ漸く玉鏡及び箱を製造するを得たり業末だ央ならざるに幕府の脱走士榎本釜次郎の部下氏の前を過ぎりて写真器械を製造するを見切りに撮影を求む」とある。つまり、ここでは榎本釜次郎の部下たちが田本研造に撮影を依頼していることがわかる。横山松三郎は撮影していないのだ。もっとも横山松三郎は山口才一郎が『旧幕府』(第参巻第七号)に掲載された下岡蓮杖の自伝「写真事歴」を引用すれば、「慶応四年撮影ノ業ヲ江戸両国元坊ニ開ク 次テ下谷池之端ニ移転セリ」とあることから、すでに函館に居なかったのだろう。また、田本の葬儀の際に、写真師・紺野松次郎の弔辞に、「五稜郭の役あり徳川の脱士等先生の写真の技を弄ぶを見て珍として争いて其門を訪ふ榎本泉州以下富年お小照今日に散見するもの皆先生の神技の賜なり」と、紺野松次郎は旧幕府脱走軍の幹部たちの写真撮影は、田本研造が撮影したことであると語っている。さらに田本研造の履歴についても、本人が存命で活躍中の明治二十一年二月十九日付函館新聞に、「(前略)其後元治慶応の頃函館へ下り横山木津両氏に就きて写真の術を修め大いに自得せる所あり明治元年氏自ら写真鏡を工夫製造し薬剤を備へ写術を試みたり明治二年は恰も旧幕脱士の入込みたる時なりしば諸士頻りに氏の許に来り写影を求め脱士諸士の像を写つしたるもの頗る多かりしといふ(後略)」とあることから、状況証拠ながら木津幸吉(剛吉)が撮影した可能性は薄く、田本研造が撮影した可能性が非常に高いことがこのことからもわかる。まとめると現時点での情報を考えれば、土方歳三の写真は函館で、明治元年十二月十五日から明治二年四月九日の間に田本研造が撮影したのである。(「写真が紐とく幕末・明治」2009.1.21「土方歳三写真の謎 その五」』
③これら二種の写真はどのようにして土方家に渡ったのか。
『土方歳三の写真は洋装軍服姿の肖像写真で、①椅子に腰かけて足元の全身まで写っている写真(土方家所蔵写真、平拙三家旧蔵写真)と②椅子に腰かけて膝より上が写っている写真(佐藤彦五郎家所蔵写真、平拙三家旧蔵写真、小島資料館所蔵写真)の二種類が現存するが、どういう過程を経て複写、伝来されてきたかである。実は僕は土方歳三の使者市村鉄之助は、この二種類の写真を持ってきたのではないかと考えている。それを佐藤彦五郎家を通じて、土方家へ渡したのではないだろうか。もちろんその過程で後年さらに複写した写真を親しい親族、遠縁、友人などに渡したのである。(「写真が紐とく幕末・明治」2009.1.24「土方歳三写真の謎 その六」)』
④どこで誰が複写したものなのか。
『平拙三家蔵の土方歳三の写真は、この木村藤太の写真館で複写販売されていたと考えられる。『釧路市史』によると木村藤太は明治26年に釧路にて写真館を開業していることから、平拙三家蔵の土方歳三の写真は、これ以降に複写、入手された写真とも考えられる。しかし、・・・・そうとも断定できないのである。というのは、木村研が明治39年に函館会所町の田本研三の写真館を引き継いで開業していることから、この木村研の写真館で使用されていた写真台紙という可能性もあるからだ。つまり、木村藤太と木村研という明治時代の北海道にいた写真師は、何らかの密接な人間関係があるのでは?というわけだ。例えばそれは、①木村藤太は後に木村研と改名した。(つまり同一人物)②木村藤太と木村研は親子関係、あるいは親族関係
ということも十分考えられるのである。(「写真が紐とく幕末・明治」2009.6.1「土方歳三写真の謎 その七」)』
しかし、最後には『ところが、・・・・その後の調査で、平拙三氏所蔵の土方歳三の全身肖像写真(GK写真)は、どうやら明治十年頃に大沼沈山といっしょに北海道に行った本田退庵が、土方家、平家に「こんな写真があったよ」という感じで持ってきた写真のようだ。そうなるとこの「GK写真」の写真館はすでに明治十年頃に存在していたということになり、明治39年に函館会所町の田本研三の写真館を引き継いで開業した木村研は、候補者ではなくなる。木村藤太は明治26年に釧路にて写真館を開業しているから、木村藤太でもない。ということで、また振り出しに戻ってしまいました。うーん、・・・誰なんでしょうねぇ、・・・・この「GK写真」の写真館は。(「写真が紐とく幕末・明治」2009.6.7「土方歳三写真の謎 その八」)』
となり、
『土方愛さんはもちろん土方歳三のご子孫にあたる女性だ。
講演後、土方歳三資料館の方へもお邪魔して、土方家に残る近藤勇、土方歳三などの写真も拝見させていただいた。
またありがたいことにこの本もその時に頂いた。
帰宅後、僕はさっそく読んだのだが、土方歳三の写真がどうして土方家にあるのか、その謎を解くヒントも書かれていた。当初、僕は釣洋一先生などからも勧められて、近藤勇の写真の次には土方歳三の写真について研究してみようかと考えたこともあるのだが、土方愛さんと何度かお会いしてお話をさせていただくうちに、やはり土方歳三のご子孫である土方愛さんが、土方歳三の写真について研究するべきだと考えるようになった。(「写真が紐とく幕末・明治」2009.6.17「土方愛著『子孫が語る土方歳三』」)
との結論に至ったようだ。
市村鉄之助が件の写真を届けた先は佐藤家だとされているが、佐藤彦五郎資料館では市村の歯形のあるこの写真の保管に大層腐心されているようである。