■地理と理科

 
地理とは、地形や土地の理(ことわり)を学ぶ科目です。
 
理科とは、自然の理(ことわり)を学ぶ科目です。
 
では、とは何でしょうか。
 
辞書によれば、(り、Lĭ)とは中国哲学のこととされます。
 
 
■事と理
 
中国仏教では、全ての現象を 事 と言います。
 
一方、(現象) を分析して説明する事を と言います。
 
中国仏教においては、事 ⇆ となり、逆の概念です。
 
日本語では、事 を割る(分析する)ので、(ことわり)となったと思われます。
 
 
ところで、地理や理科があるなら、理 を算術によって解き明かそうとするものがあっても、おかしくはないと思いませんか。
 
私もそう思いました。
 
理算 があっても良いのではと。
 
 
 
円理算がありました。
 
 
 
 
■円理算
 
古くから円は不思議の宝庫で、その謎を解き明かそうと、現在でも多くの数学者たちが挑み続けています。
 
円理算とは、円を分割して謎を解き明かそうとしたものです。
円理算
 
分割して面積を求めてみたり、円周率を求めたり、様々なことを試しました。
 
昔の人は、円に森羅万象を見たのだと思います。
 
何度も書き直しましたが、私には良い表現が思いつかず、今の想いをストレートに書くことにします。
 
 
割り算は元々、理(ことわり)算、事割り算だったのではないかと思えて仕方がないのです。
 
少し、疲れているだけかもしれません。
 
 
■西洋
 
東洋では が万物を表しますが、西洋にも同じような考え方があり、日本語では、それに  という字をあてがいました。
 
とは「まこと、ありのまま」という意味です。
 
事実 には、「東洋と西洋の万象」の意味があります。
 
 
■疲労からくる幻想
 
一神教には、昔は神は人と共にあったけれど、「人間が最初の罪を犯した時から神は見えなくなってしまった」という言い伝えがあります。
 
だから、それ以降、神は di  vision (目に見えない)のだよと。
 
 
毛利重能は『割算書』の中で、「人が知恵のを割った時から割り算が始まった」と語っています。
 
確かに現在では、division は割り算と訳されています。
 
 
(※ちなみに、divide のラテン語 divido は1単語で100通り以上も活用しますが、ラテン語の聖書ではふんだんに使われています。創世記だけでも、divisitque, divisit, dividant, dividat, dividerent, dividitur, divisae, divisa 等が使われています。現在の活用表には載っていないものまであります。これらから di を取り去ると、全ての単語が、見る、知る、話すという意味になります。)
 
■それぞれの解釈
 
釈迦は、(りろん、りくつ、ことわり) より (目の前にあるものごと) が大切だと悟ったとされます。
 
一神教では、人は実を割った(division)時にエデンの園から追放された、という話が聖書にもコーランにも載っています。
 
いずれにせよ、どちらも、「あるがままを受け入れよ」と説いています。
 
つまり、どの教えでも「割るな、分析するな」と言っています。
 
 
そろそろ、普通の家庭教師に戻った方が良いのかもしれません。
 
これ以上、事を割ると、受験界の楽園から追放されてしまいそうです。
 
そうは言っても、私の仕事は そのものですが。
 
 
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