何故か眠れない日って、ありますよね。
つらつらと、夜中の4時に割算について書きまとめました。
■割り算
毛利重能は、豊臣秀吉に仕えたとも言われる算術家であり、珠算(そろばん)の祖です。
世界一早くベルヌーイ数を発見した関孝和の、師の師にあたります。
毛利重能は、著書『割算書』の中で、「割り算」の起源について語ってます。
(原)
夫割算と云は、寿天屋辺連と云所に智恵万徳を備はれる名木有。此木に百味之含霊の菓、一生一切人間の初、夫婦二人有故、是を其時二に割初より此方、割算と云事有。
(訳)
ジュテンヤベンレンという場所に全知の木があった。この木には、100の味と霊を含んだ実がなっていた。この世で初の人間の夫婦がおり、彼らがその実を2つに割った時から割算というものが始まった。
アダムとイブが智恵の木になるリンゴを割って食べたとされる、聖書の内容そのものです。
※ジュテンヤベンレン=キリストの生誕地ベツレへム
不思議ですよね。
『割算書』の序文に書かれた上の言葉は、もちろん、毛利重能なりの冗談と思います。
ただ、当時の日本人がキリスト教の影響を受けると同時に、何らかの西洋式数学を学んでいた可能性を示唆しています。
和算の成立にヨーロッパの宣教師の影響があったか否かは、現代の重要な研究課題です。
■割算
西洋において、割算は division あたりの単語を当てがいますが、語源からさほど変化していません。
division(割算)
→ dividere(分割)
= di(否定) + vididere(見る)
限りなく語源に忠実に訳せば、「見えない(盲目)」「何も知らない(無知)」を意味します。
何も分かっていない大馬鹿者、といった感じでしょうか。
※世界中の多くの宗教において、何かを割ってしまうこと(分析すること)はタブー。当時の宗教にとって『科学』は脅威。この辺りは仏教とて同じです。
■除算
ところで、東洋には割算に近いものとして、「除算」があります。
孫子算経(5~6世紀頃)には、「除之法」について記されています。
(原)
凡除之法:與乘正異乘得在中央,除得在上方,假令六為法,百為實,以六除百,當進之二等,令在正百下。以六除一,則法多而實少,不可除,故當退就十位,以法除實,言一六而折百為四十,故可除。若實多法少,自當百之,不當復退,故或步法十者,置於十百位(頭位有空絕者,法退二位。餘法皆如乘時,實有餘者,以法命之,以法為母, 實餘為子。
具体的な術式(算法)についても書かれています。
(原)
今有物、不知其数。三・三数之、剰二。五・五数之、剰三。七・七数之、剰二。問物幾何?
答曰:二十三。
術曰:『三・三数之、剰二』、置一百四十。『五・五数之、剰三』、置六十三。『七・七数之、剰二』、置三十。并之、得二百三十三。以二百一十減之、即得。凡、三・三数之、剰一、則置七十。五・五数之、剰一、則置二十一。七・七数之、剰一、則置十五。一百六以上、以一百五減之、即得。
ある数の中から、ある数を何度も除いていく(差し引いていく)という考え方が綴られています。
「取り除く」という考えなので、「除之法」とされ、「割る」という文字は出てきません。
また、「除」という言葉は、現在の日本の法律用語にも多く見られます。
「教育公務員特例法施行令」第3条
前二項の規定による在職期間のうちに次に掲げる期間が引き続き一年以上あるときは、その期間の年数(一年未満の端数があるときは、これを切り捨てた年数)を当該在職期間から除算する。
差し引くという意味で、「除算」という言葉を使っています。
「割る」という西洋的な考えに対して、「取り除く」というのは、実に東洋的な考えです。
■現在の割り算
6 ÷ 2 = 3
・6 を 2 つに分けると片方は 3
・6 の中には 2 が 3 個ある
割算に2つの解釈があるのは、根底に西洋と東洋の両方の思想があるからです。
西洋的な思想では、6 を 2つに分けて片方は 3 だと考える一方、東洋的な思想では、6 から次々に 2 を取り除いていく行為が 3 回出来ると考えます。
現在の割り算は、それらの思想が時代を超えて、1つに融合した様を表しています。
■次回予告
今日は、いくらか怪しいお話を交えつつ、割算の起源について書きました。
ところで、割算の答えを「商」と呼びますよね。
和、差、積、商
和、差、積は何となく分かるとして、「商」だけは明らかに異質です。
次回は、この辺りについて。
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