木曜レビュー[ドキュメンタリーのこころ] カルト集団と過激な信仰(2018)③ | こころの臨床

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心理学は、学問的な支えも実践的身構えも、いずれも十全と言うにはほど遠い状況です。心理学の性格と限界を心に留めつつ、日本人が積み重ねてきた知恵を、新しい時代に活かせるよう皆さまとともに考えていきます。

カルト集団と過激な信仰 

③ 2つの世界、分断を癒す責務を負う者

 

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この7回シリーズを通して、見て取れるのは分断される2つの世界の対立の構図です。

カルトと呼ばれる異世界の中で自閉した内部での温かい協同、それは人為的な外の情報のシャットアウト、分離、隔絶が前提となっています。

そのため、カルトから離脱する者、それは裏切り者となり、その者たちへの制裁として、肉親との相互交流の遮断が教理に基づき、カルト教団内に残った家族や友人に強要されます。

 

 

 

 

 

 

見るからに異界感があるのは、シリーズ第5回の、「鉄の杖(黙示録が出典)」を自動小銃と読み替え、外の世界に過剰防衛的に対峙しようとする、サンクチュアリ教会(ムーニーからの分派。代表は文鮮明の子息のショーン・ムーン氏)です。

 

これは投影性同一視による戯画、ほぼコメディですが、当事者諸氏は無論、大真面目です。

他のキリスト教系カルトに比べると、銃の表象を勘違い的に弄ぶ児戯じみた印象があり、バラエティ?ギャグ?....かえってどこかホッとさせられてしまうのは、すでにこのドキュメンタリーシリーズの作品群から伝わる毒気に当てられているせいかもしれません。

 

 

 

 

脱会するのはカルトの中で積み上げた業績とそれに関わる膨大な時間的経済的コストを捨て去ることであり、苦難の道を選ぶと分かりながら、外の世界へと転生することとなります。

 

 

脱会・脱退、これも異界との間を往還する転生(:再生)体験となります。

 

 

このように苦難を超える経験を通して異界と現世の双方を知ることとなった者は自ずと、〈あいだの者 (メディウム)〉としての独自の地位を否応なく得ることになります。

 

 

「宗教2世」と呼ばれる、異界に生まれて後に、外に脱した者もまた、メディウムとなることがあるでしょう。たとえば、麻原彰晃の三女の松本麗華さんは現在「心理カウンセラー」として、こちらの世界に居場所を得ておられます。

 

 

一方、異界に生まれ、自らが異界の者であり外の世界からは奇妙なマイノリティとみなされていることを知りながらそこで終生を過ごすことを自らの意思で選択し止まる人々の存在が、シリーズの最後の回のFLDSの取材では紹介されていました。

 

その人々は、他の多くのカルトのように、外の世界を悪魔が支配する世界等と蔑み恐れ断固拒むのではなく、それぞれ別の理念の理念に統べられる二つの世界であると認め、各々の特性を知った上で、その一方を選択しています。

 

その思いをインタビュアーに静かに語る、分別ある風貌の女性が印象的でした。

 

 

 

 

これら例外的な人々に比して、典型的メディウム化の例としては、Hassan,S.(ブックレビューで紹介。学生の時に勧誘されてムーニー(旧統一教会)に入信した人です。)が挙げられるように思います。

 

このハッサン氏のように、カルトの中で搾取される奴隷の道徳に一旦沈み込んだのちに、そこから脱出することができた(その経緯も非常に暗示的です。自損事故的交通事故で重傷を負う試練が転回点…再「回心conversion」に導かれるのですから。)人がメディウムとして、分断された他の家族の修復を助ける役目を自認することができるのだと思います。

 

カルトの世界とその外側の世界はそれぞれの〈法〉に支配された相容れない世界同士ですが、これらの間を行き来でき、分断された二つの世界を〈繋ぐ〉のはそれら二つの世界の中間に漂う者であるメディウムすなわちシャマンの責務*です。

 

....その責務を意識的あるいは無意識的であれ自認する「心理療法」家も少なくないでしょう。

 

あのロジャース,C.もPCAの手法を以て北アイルランド紛争の当事者間の対話の試みに挑戦した事例(「鋼鉄のシャッター」)がよく知られています。

 

近年「司法的修復」という加害者・被害者という相容れない立場同士の裁判外での心を割った対話の試みについても、聞かれたことがあるのではないでしょうか。この想像するだに難しい対話の試みは、極めて優れてその間に立って留まる者の存在なしには到底困難でしょう。)。

 

 

*にゃん修論は、シャマニズム研究でした。院試後にこれを提示した時、指導教官から「本気なん?」と確かめられた覚えがあります。「紫の上コンプレックス」で失敗したので、一学年原則一人弱(零人も想定内)しか取らない井上院ゼミになんとか捻じ入るべく、亮先生が断ることができないはずのテーマをぶち上げるキタナい手を使ったのでした。いま、この年になって身につまされることは、積み上げてきた研究を引き継いでくれる人を渇望し希求していることです。「本気なん?」と言われた時の亮先生のお気持ちが今なら痛いほどわかります。亮先生が積み上げてこられたシャマニズム研究を引き継ぐのは、自分だと自他ともに認めることができた当時を顧みて、これらが宙に浮いたまま霧散する結末となりそうな寂しさを覚えます。

 

 

 

Goodomens1のマダムトレーシーは霊媒(メディウム)。

 

 

繋ぐことによって癒しをもたらす者としての、一人の人間としては過剰な役回りを果たすこととなります。その手段は、当事者手記を発表しての社会啓発、元幹部であった脱会者としてカルト内部を知り尽くした立場からの脱会支援者となるなど。

 

 

シャマンのイメージは、現代の人気を博するポピュラー文化の中にも見出すことができます。

例えば、BCCの長寿番組『ドクター・フー』。「ドクター」は「癒す者」の呼び名でしょう。『ドクター・フー』全編に漂うdoomyなイメージ、つまり終末(Doomsday)感のペシミズム、これは多数の人々が知らずに済ましていることを知らされてしまったシャマンが背負わねばならない宿命です。

 

 

同じくBBCが制作した、クリスチャニティを皮肉った寓話、「ハルマゲドン」「再臨」…人類の終末への接近を描いたファンタジードラマ『グッドオーメンズ』の原作者の一人、ニール・ゲイマンが、「カルト」と見做されることが一般的なサイエントロジー教会信徒のユダヤ人家庭に育った「宗教2世」であることは、比較的知られていると思います。

ゲイマンも上述の意味合いにおいて、シャマンの一人なのだと思います。