宗教学会第82回大会公開シンポ参加報告10/10-2 | こころの臨床

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心理学は、学問的な支えも実践的身構えも、いずれも十全と言うにはほど遠い状況です。心理学の性格と限界を心に留めつつ、日本人が積み重ねてきた知恵を、新しい時代に活かせるよう皆さまとともに考えていきます。

🐱にゃんコメ愚見管見(つづき)

 

いまよりもう少し収入があったころ、私費(研究費が出ない勤務形態だったので)で10個近くの学会に入っていたことを言いましたっけ。その中の半分ほどは後ろに「心理学会」とつかない学会でした。そのいくつかの中で、にゃんは、日本民俗学会(比較民俗学会は別として)よりも宗教学会系の集まりの方が、身に合っていました。

 

 

日本民俗学会の年会は、若手もある程度中堅の方も調査地に入り込んで綿密に調査してそのデータを発表して終わりってことが多く、それで何?の先に進まないように感じられました。

それらのデータの考察は、偉い先生方の仕事、というふう棲み分けなのかな~と思われさてしまいました。

 

 

でも、日本宗教学会の学術大会では、たとえまだまだ拙い個人的な感想であれ、若手なら若手なりの調査者としてのオリジナルな何らかの意見が、末尾につけ加わる、という傾向があります。

 

 

それらの調査と考察を著名な先生方をはじめ参加者が、対等に受け止めて議論していくというエートスが宗教学会にはあります。これが、エキサイティングでもあり、ほんわかと温かい雰囲気を醸し出しているのではないかと思います。

 

 

それは、心理臨床系の学会や研修会とは、内実面でかなり違っていることだと思います。

 

 

 

 

心理臨床系の人々の集まりでの「温かさ」や「和やかさ」ってのは、にゃんにしてみれば、どこか知りたくなくても〈裏〉が看取され一種の〈欺瞞〉が感じられてしまうんです。

 

心理臨床家の全部とは言いませんが、初学者とはみなされずに平均的なキャリアに至っている方々の発する言葉や表情や振る舞いには、どうも、人工的なテクニックや職業病として無意識裏の演技というコーティングがかかっています.........。

 

 

個人ブログで、こんなことをぐちぐち書いていたこともありましたっけ...。(2017.11.03付)

https://ameblo.jp/slapp-nyan/entry-12325174404.html 

 

 

(昨年の宗教学会大会の参加報告および個人的な感想に続く連想は、とりあえずここまで)