ブックレビュー河合隼雄特集④:カウンセリングを語る上下 (1985)創元社 | こころの臨床

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心理学は、学問的な支えも実践的身構えも、いずれも十全と言うにはほど遠い状況です。心理学の性格と限界を心に留めつつ、日本人が積み重ねてきた知恵を、新しい時代に活かせるよう皆さまとともに考えていきます。

刊行年は、1985年ですが、20年にわたる四天王寺人生相談所のカウンセリング研修講座での速記講演録から精選されたもの、とのこと。

 

 

「序」で刊行当時の四天王寺管長奥田慈應師は、「説法も一人対一人とならねばならない…[略]…本来は応機説法すなわち仏教カウンセリングであるべきものであった」との達見を開陳されています。

 

 

すなわち、この国の「カウンセリング」は、「応機説法」であることが相応しいこと、その営みの基盤としての「日本仏教(「仏教」ではないことに留意、例えばカール=ベッカーさんの日本人の死生観の論考。)」があること、をきっぱりと示してくださったと思います。

 

 

 

 

「『臨床』とは、死の床に臨むこと」、これはみなさんもたびたび耳にされてきた文言だと思います。それは、河合心理臨床学徒が師から弟子へと語り伝えた口伝のひとつです。

 

 

臨床心理学/心理臨床学徒であるあなたが、好きだったり、身にあっていると思っていたり、あるいは「信奉」している諸学派のそれぞれはいずれも、この日本の土壌に移植されて後、全て「日本(仏)教」との混淆が生じていることを、心に留めておくのがよいように思います。

 

 

日本においてのカウンセリングは「日本仏教」とのつながりが深いのです。だから、その後も河合先生の著書には「仏教」と結ばれた心理臨床に関する論考が少なくありません。

 

 

本書の内容は、親や教師をはじめ、子どもの養育指導、支援に関わる方々にとって、これまで思い込んできたことの転換を促されてはっとしたり、検討課題であり続けていたことに関わる意外なヒントを得られたりと、いまでも学ばせていただける珠玉の言葉が数多く見出されます。

 

 

臨床(・対人支援)にどれだけの厚みと深みで従事しているかは、自分では分かりにくいものです。そんなとき、他の特に卓越した臨床家の言葉が、いかほどに我が身に響くか・我がこころに沁みるかを、我が臨床の力量を計測する指標(目盛)とすることができるのではないでしょうか。河合先生のご本の多くが、このような指標を読む人に差し出してくれています。

 

 

そしてまた、読む人がそれぞれに、いま、なにかに悩み惑い困っていればいるほど、河合先生の何気なさそうにみえる文字遣いの間に漂う機微、と奥深さをじんわりとあるいはぐっと受けとめていただけるでしょう。

 

 

[略]…私が共感ということを大事にするんだったら、そこで、その人の話に対してどうなるか、となりますと、いま言いましたように、われわれは単に共感すればいいんだ、受容すればいいんだというだけじゃなくて、そういう話[本書前段:自殺の仄めかしも含む「けったいな話」]をさえ受け入れる器として、自分をいかに鍛えるか、という問題になってくると思うんです。(上p148)

 

 

[略]…カウンセリングといったら何か一つの部屋の中に入って、一対一で座ってフンとかハアとか言わないといかんというふうに、絶対思わないように。…[略]…相手の言うことをフンフンきいているということは、先ほどから言ってますように、ものすごいエネルギーのいることで、大変なことですけれども、それだけじゃなくて、非常に不思議なことに、体を動かすことの中にいろんな意味がある。

 

[略]…おそらく、これからのカウンセリングという点では、…[略]…世界的に、心と体の問題というのは一番大きな問題になるだろうと、私は思います。[略]…(下p154)