こんにちは!

*自分とのお付き合い研究室*かなえです。






2014~15年にスピリチュアルの気になる講座やワークショップ等、片っ端から参加しました。


不思議なんだけれど私が選ぶのは傾向があったようで、「自分に意識を向けて」「何を感じているか」「身体は何を言っているか」「どんなイメージが浮かぶか」など微細な感覚を拾うことをひたすらするワーク 中心の講座を、結果的にですが選んでいました。


静かに座って目をつぶり、誘導に沿って自分に意識を向けて、微細な感覚があるかサーチする。感覚が何かある感じがする。感覚に焦点を合わせる。意識の中で見つめる。意識の中で掴む(掬う)。その感覚を言葉にしてみる。それを毎回毎回、繰り返し繰り返し、2年ほど続けました。


(この「感覚をサーチする」の感覚というのは、五感やそれ以外の感覚(内臓感覚、平衡感覚など)や、もやもやするとかざわざわするとか身体が何かを表現している感覚等、人が持っている全ての感覚のことです。)


とっても地味なこと。
動きのないように見えること。
何になるんだろう?というようなこと。
何の意味があるんだろう?というようなこと。


それでも楽しかった。
何故か楽しかった。


感覚があるんだ。
人には感覚があるんだ。
自分にも感じられる感覚があるんだ。


自分と感覚が繋がった。
「私」と「感覚」が「繋がった」


これを続けたことで、変化がたくさんたくさんありました。


×人が苦手、怖い、
×人前でしゃべれない
×何を話したらいいかわからない
×いつも人のことばかり考えている
×いつも心ここにあらずの状態


そんな私が自分の「感覚」に集中することで、


*他人に意識が持っていかれなくなる →人が苦手、怖いという気持ちを感じている時間がなくなる
*自分のつかまえた感覚を言葉にすることに一生懸命になる →人前でしゃべれた
*自分の感覚を話していい →話すことがある
*安心安全の場で自分の感覚を否定されない経験 →自分の感覚を信じられる
*いまここにある自分を感じられる
*聞いてもらえる →しゃべっていいんだ
*感覚に正解不正解はない→そのままでいい
*感覚には優劣がない →そのままでいい


いろんなことを頭ではなく身体が納得した。身体が教えてくれた。


そして何より、、、

「あった」

何より何より、、、

「私があった!」

「あったよ!」

「私はある!」という感覚。


それまで「存在しないように」生きてきた。
存在すると迷惑になるから「私は存在しない」という生き方をしてきた。
(書いていてとても矛盾を感じますが)


それが、存在しないはずの「私」が「あった」
「あった」んだ。
「ある」んだ。


動かしがたい真実。


「ある」んだよ。
「私」は「ある」よ。


魂が喜んでいるのを感じました。


「何故か楽しかった」のはこれなんだと思います。毎回静かに座って感覚に意識を向けていると「私」が「ある」ことが感じられる。


「存在しないようにしている私」が実は「ある」


意識の上では、存在しないようにすることが生き残るために必要と思って必死でそうしたけれど、本当の私は存在していたかったんだ。「私はある」と思いたかったんだ。


「ある」がわかったら人との境界もわかるようになりました。「ある」の部分が「私」それ以外は「私」ではない。


境界がわかると生きるのもシンプルになりました。「私」がコントロールできるのは「私」の「ある」の部分だけ。それ以外は自分の領域外のこと。コントロールできない。手放す。


「私」の「感覚」と繋がることで、またそれぞれが感じている「感覚」をシェアすることで、「私」が感じていることは「私」固有のことであり、人はそれぞれが「私」固有の世界を持っていること、それは感覚の世界は目には見えないから言葉にして伝えないと相手には伝わらないということ、そもそも「私」自身も「私の感覚」を掴まないと「私」のことがわからないこと、等々たくさんのことを受け取りました。







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《今日のエクササイズ》
自分に意識を向けてどんなことを感覚はキャッチしているのか感じてみましょう。