その訃報は、新年が明けてまだお屠蘇気分が抜けない
1月3日の朝、1本の電話からもたらされた。
朝一番の電話は碌な報せじゃない。
かみさんが出た電話の会話を何となく聞きながら、ふとそんな事
を思っていた。
そしてそれは、本当に悪い報せだった。
電話の相手は、かみさんの妹。なんとなく会話から察しはついたが
お爺ちゃんが今朝亡くなったと云う報せだった。
以前、百寿の祝いの記事で載せた、義母の父、あのお爺ちゃんが
今朝6時頃に亡くなったと云う事だった。
正月に帰った時に、義妹から最近寝たきりになってあまりよくないと
云う話しは聞いていて、かたくなに「家がいい」と言い張る爺ちゃんを
どうにかして病院へ入院させる事は出来ないか。
そんな話しをして、結局結論は出ずに帰って来た矢先の事だった。
今から10数年前、かみさんと結婚したどこの馬の骨とも判らない男に
呑まんね、食べんね、と盛大にもてなしてくれた爺ちゃん。
ひ孫になる私の娘や息子を優しく抱き、あやしてくれた爺ちゃん。
写真にあったあの小屋でBBQをした時の爺ちゃんの笑顔。
仕事が忙しくなってからは、中々会えなくなってしまった。
最後に会ったのはあの百寿のお祝いの時。
こんな事ならもっと、と後悔するが先には立たない話し。
自分の不徳がもたらした事。
記事にして良いのかどうか迷ったが、これも一つの供養。
思い出してあげるのが供養と思う。
ならば、これもそのツールの一つ。
そして、大正の時代に生まれ、戦争に行き、激動の戦後を生き
そして子をなして守った事で、かみさんが生まれ、私と出会い、
そしてその次のいのちへと繋がっていく。
一世紀を生き抜いた一人の男が此処にいた事を知ってもらう。
それも供養だと。
最後の夜に、大好きだったお酒が呑めて良かったね。
いつか、私がそちらへ行った時、また一緒に呑んで
くれますか?
勝手なお願いだけど、私達をいつまでも見守っていて
ください。
さようなら、爺ちゃん。