あなたは絶対に価値がある | 裏庭のないしょ話

裏庭のないしょ話

心の中のこと


書きたいこと、書かなければいけないことが溢れ返ってしまって収集がつかず、軽くパニクってます(笑)

ですが、いただいている感想を出来るだけ全部掲載したいと思っています。
それは、

「私のカウンセリングはこんなにスゴいんだよ!」

ということではなく、自分の心ときちんと向き合えば、誰でも生きていくことが楽になるということを、クライアントさんの言葉を通して知って欲しいからです。

世の中にはいくらでも心を癒すためのメソッドやツールがあります。
だから、

私の幸せなんてこの程度
あの人に比べればだいぶまし

などと、誰かに比べて自分は幸せだから良いやと思うのでも、この程度で・・と自分に制限をかけるのでもなく、自分が持って生まれた幸運をすべて使い切るような生き方をして欲しいな。誰もが心から笑って

「幸せだな~」

と言える社会になって欲しいな、と思います。
だから、パニクってでもクライアントさんの言葉を載せていきます!

幸せになるきっかけなんて、なんだって良いんです。
もちろんブログを読んだだけで、幸せになってくれたって全然良いんです。

自分の心と向き合いましょう。
そして、本当の幸せを望んでも良いんだと、自分に許可を出しましょう。

自分の心と向き合って、よい方向へとすすんでいる人と言えば昨日の記事(「旦那さんを怒らずに済んだ!」)にも書いたKさん。

その後さらに、

「これも皆さんに伝えてください!!」

とこんなメッセージもいただきました。

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ブログ何度も読みました~なんかあんな風に書いていただくととっても恐縮ですが、
本当に楽になりました!
今までなら考えられない~
 あ、それと、リーディングだけじゃなくてカウンセリングも絶対オススメです!
絶対に価値ある!経験者は語る!家政婦は見た!(何のこっちゃ笑)と皆さんにお伝え下さい。
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なんかもう本当に嬉しい、ありがたいとしか言いようがないですよね・・
Kさん、私にカウンセラーとしての自信をつけさせてくれてありがとう。
認めてもらえるって本当に嬉しいことです。

さてここで。
みなさんに認めて欲しい方が一人います。

両親への手紙を書いた私のクライアントのT君です。
生活のこと、お金のことで頭がいっぱいいっぱいだったご両親はT君が幼い頃からいつも喧嘩ばかりで、T君に構うどころではありませんでした。

徐々に徐々にT君は自分の心を殺し、ついには生きている価値を見いだせなくなってしまいました。

今日別のクライアントさんとチャットしていて、T君と同じような境遇を生きて来たそのクライアントさんはT君の書いた手紙の一部を読んで

彼の手紙、、、心に響いて響いて仕方なかったです。 私と一緒だと思いました。 よく頑張ったねってハグしてあげたいくらい共感していました(笑)

という感想をくれました。
親の無関心により、こころに傷を抱えたまま大人になってしまった人はたくさんいます。
T君の手紙は、そんな人たちの気持ちの代弁であり、これから私たちが子供を育てていくにあたって、親の責任がどれだけのものかを知るのにとても重要な要素をたくさん含んでいると思います。
そこで、T君に許可をいただき全文掲載することにしました。

彼はこの手紙の中で繰り返し繰り返し、「認められたい」と綴っています。
この手紙にはT君の魂の叫びが綴られています。
特に後半部分は圧巻です。

彼が、彼のすべてを込めてこの手紙を綴ったことは、「100イイネ!」をあげたいぐらいに価値あるものだと思います。

そして、私も彼の勇気と傷ついたこころに彼にハグしてあげたいぐらいです。

少し長い手紙ですが、みなさんもそれぞれの立場でこの彼の手紙を読んであげてください。

そして彼がどれぐらい「イイネ!」をもらえる程、価値のある人間かをどうか教えてあげてください。

よろしくお願い致します。

以下、T君の手紙全文

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母さん 父さんへ

故あって、手紙を書いてみようと思います。
はじめに遺書ではないので悪しからず(笑)

ふと、書こうとして自分でも驚いたことがあります。
それは、ここ年くらい自分の考えたこと・感じたことを二人に伝えていなかったということです。

もしかしたら、少しづつでも自分のことを伝えることができていたら、また違う今になっていたのでは?と少し感傷的になっています。

今、僕の中には、小さい頃から、小学生くらいから?まとわりつく漠然とした不安、閉塞感、崖っぷち感が並々に溢れています。

日々の楽しい事も感じることが少なく、何かやろうという気も益々なくなってきていて、僕は行き詰まっています。

ここ数年、自分でも改善しようと色々な本を読んで学びました。
以前、母さん、父さんにもすすめた本です。

自分の抱えている気持ち、思考パターンの原因は多少なりとも理解が進んできましたが、依然生きづらさは変わりません。

やはり、何か具体的に行動を起さないといけないということ2週間前に、はじめてカウンセリングというものを受けました。

その中で、先生と約束したのが

「親に伝えたくて、伝えられなかったことを伝える」

ということです。

生きる上での多くの問題は「幼少期の人間関係」に起因しているというのはよく聞きますので、いつかは乗り越えなければならないとは思いつつも、これまで中々行動に移すことはできていませんでした。

でも、これ以上は先送りにできないところまできていますので、遅れてきた反抗期と思って、聞いてもらえればと思います。

これから書くことは、あくまで「過去感じたままのことを伝える」ことが目的ですので、ただ聞いて下さい。

どこから話しましょうか?
じっくり過去を振り返ると、色々なことが思い出されます。

ふと幼稚園の合奏練習の光景を思い出します。
ピアニカをみんなで吹くのですが、全くついていけず、途中で吹いているふりをしていました。それでも先生にみつからずに、なんというか、こういうもの何だと思ったことが印象に残っています。

小学生の時は、いじめられていたというのは何となく覚えています。
周りの目を非常に気にしていた気がします。

敵にいかに攻撃されないか?そんな中で憧れていたのが「Kちゃん」でした。彼は自己主張が強く、それでいてスポーツもでき、とてもかっこ良く見えました。
自分もあんな風になれたらな?と幼いながらおもっていたような気がします。

あ、高学年くらいから父さん、母さんの喧嘩で家が騒がしかったような気がします。
いや、中学校はいってからかな?

そういえば、小学校の時は誰かれかまわず手が出て、しばしば問題になっていましたね。



中学校入ってからこれまで、人を本気で殴ったり、そもそも喧嘩をしたことがないので、あの頃の暴力性はなんだったのか?不思議になります。

いちいち全部書いていたら切りがありませんね。小、中、高生活、日常の中で、常に家は落ち着かない場所でした。

結構音も響くし、家の中の人の動きが把握できるので、気を使います。
だいたい、父さんの仕事上のミスを、母が指摘し、その中で色々な話題に火種がとび喧嘩になるというパターンでしたね。

夫婦で商売するのは大変ですね。
その度、非常に不安になり、悲しくなり、それが怒りになり、それも表現できず、とりあえず避難するしかできませんでした。

早く終わってほしいといったところです。

記憶に残っているのは、どんな場面か忘れてしまいましたが、母さんから喧嘩中に僕に向かって「いつも我関せず感じだね!」と責められたことです。

母さんは覚えていないかもしれないけれど、どうしてあんなことを言ったのかが知りたいです。僕のことをどんな風に思ってそんなことを言ったのですか?僕にどうして欲しかったのですか?

僕は内心、「当たり前だろ、巻き込むな」と強く思いました。
何もしなくてに責められる理不尽さに悲しくなり、怒りもありました。

じゃ、どうすれば、いいんだよ?と。

とはいえ、思ったことを言えば、自分の立場もなくなると、変に小賢しく考え、より我関せずになったことは、どうしようもありませんでした。

本当は「両親の中の悪い、僕の辛い気持ちをわかってほしい」と言いたかったです。

話は変わりますが、僕は非常に失敗を恐れる子でした。
(今もそうですが)走のタイムを改ざんしたことです。秒くらいの範囲でしたが、なぜか強く変えなければ!と思った記憶があります。

あまりにも自分に課した理想が高かったのかもしれません。
しかも、自分がやりたいことなら良いんですが、「周囲の期待を嗅ぎ取って設定した、受け入れられやすい像」みたいなものに強く固執していた気がします。

中学校の野球でもそうでした。「いかにエラーしないか?」「いかに見窄らしいバッティングをしないか?」という思考が選考していて、試合では緊張するし、一方で練習でもダメなところを見せたら、レギュラーではなくなる!と思い、トライすることもどんどんなくなっていた気がします。

周囲に評価されて、尊敬されて、はじめて居場所を見いだせる、というのが小さいことから染み付いていました。

今もひきずっている、苦しい習性です。

とはいえ、中学校終わるくらいまでは、それなりに努力して結果もついてきたので、なんとか騙し騙しやってこれたと思います。

多分、崩れ始めたのは高校へ入って野球部を辞めたころからでしょうか?あの頃の僕は学生の価値、は「勉強ができるか?」「スポーツができるか?」「何か特技があるか?」という軸にあると信じて疑わず、それに適応しようとしていました。

 でも、野球も上手くいかず、ただ苦しいだけになってしまい、諦めました。その後、少しアメフトもやりましたが、あれもすぐ苦しくなり辞めましたね。

やりたいことではなく学生として求められている事をやろうとしていました。

全て一人相撲で、振り返れば滑稽ですが、当時は生きるか死ぬか?というくらい必死でした。

この頃も、家の喧嘩は日常茶飯事でしたね。ある程度なれていた気がします。当時の僕は、この上なく無気力になる周期と元気な周期が入れ替わりできていたような気がします。

今だから言えますが、父さん、母さんには消えてほしいと思うこともよくありました。

それでいて、本当に消えてしまったら自分は生きていけないとも強く思っており、変に迎合していました。

良い子になりきることが出来いなら、もっと自分を表現していけばよかったと思います。

この頃から、自分の内面を見つめることが多くなり、その過程で「心理学」に興味をもち大学進学もその方向で考えていました。

しかし、なぜか?その先のを調べ始め「臨床心理士」へ行き当たり、その場合、男性の雇用機会も少なく、賃金水準も低いことから断念した記憶があります。

今、思えばなんであの時の気持ちを大事にしなかったんだろう?と思います。

でも、僕は「自分は、社会的ステータスも高く、収入の水準も良い、なおかつできれば独立してやっていける」につくような進路を選ぶことが必要だ、世間的には。みたいな変な脅迫観念がありました。

とはいえ、弁護士の道も興味はもてずに、とりあえず何か可能性のありそうな「K大の総合人間学部」に憧れるようになりました。 確か、このK大に行きたい!という話しをした時に、母さんが思った以上に悲しんだ記憶がありました。

細かい言葉は覚えていませんが、色々な方向から反対された気がします。

とても驚くとともに、何か悩むのが面倒くさくなった瞬間でした。どうせ考えても、反対されるなら、適当に迎合しておけと。

本当にやりたいことだったら、理解してもらえるよう伝えていくべきだ!とか、正論は今の僕にも言えますが、そもそも基準が「世間、学校、親に認められるものか?」が多くを占めていた中で、小さな小さなやりたいことの種を育むのは、困難でした。

僕の弱いところですが、どうしようもありませんでした。
世の中には、親の反対はおしのけて~みたいなエピソードが溢れかえっていますが、あれは親に反抗できる強い子の話です。

親が子どもに言うことを聞かせるためには、怒るだけでなく、悲しむ、自分を責めるなど、様々な方法があると思います。

要は、子どもへ「自分が悪いんだ」と思わせればいいわけで、、、なんだか、面倒臭くなっていました。

最低限、大学に行かないとこの先生きていけないということで、N大法学部へすべりこみましたね。

大学へ入ってからも、まだまだ自分の「世間、学校、親に認められるものか?」の病が続きます。

大学に入って早々、「勉学」では全く結果を残せないことを悟りました。興味がないし、適当にやってもやっぱり単位がもらえない。だったら、ということで学業以外のことに色々と手を出していきました。

自分の好奇心と、「世間、学校、親に認められるものか?」病が、いい具合に混ざり合って、一時の自尊心は満たされました。

学外にネットワークをもって、活動している学生というのは、注目されやすいし、大人たちからも認められやすいのです。

大学時代は、父さん、母さんとは何となくの会話しかしていませんでしたね。
はなっから僕は理解してもらえない、無駄だ、と拗ねていたのかもしれません。

否定されたら、経済的援助をうけて生活を営んでいくことが難しくなる、否定されるのが恐い。といった感じ。

他の人と接する時にも、「肩書き」「役割」「目的」なんかの建前がないと恐い、という感覚に拍車がかかっていました。

大学3年の時までは、学外の活動も認められ、比較的安定した日々でしたが、就職活動の時期になって、内心恐れていたことがありました。

大学でた後に、世間から認められ、かつ経済的にも自立していける道を自分は歩んでいけるのか?ということです。

大学の単位は全然とれておらず卒業の見込みはなし。また、この頃は普通に「会社員」になることすら「みんなと同じ」ということで気が進みませんでした。

そんな中で、フリーペーパーの活動の関係で出会ったO君と意気投合し、起業をすることへ。

ふりかえれば、やりたいからやった、というよりも、世間で認められる手段という意味合いの方が大きかったです。

そんな気持ちで始めるも、結局収益も全然立たず、そこでタイミングよく誘われたのがRという会社でした。

色々と理由をつけて東京へいきたいと伝えましたが、正直就職できて、給料がもらえる、それなりのIT系ということで十分でした。

何よりも親元を離れて「経済的に自立」することだけが頭にありました。そこで勢い良く飛び込んでみたものの、そもそも業務もやりたいこと!という訳でもなく、加えて全く成果が出ない。

世間、会社、親に認められるものか?」病から、日々がどんどん息苦しくなってきてしまい、結局帰ってきてしまいました。

既に崖っぷちでした。大学を続ける気合いもなくどうしようか? 

東京から帰ってきた際には、自分が生きている価値がないように感じました。

とりあえず、お金を稼がなければ(社会に認められなければ)と、たまたま見つけたデスクスタイルの営業の仕事をやりはじめました。それなりに、市場も良い時に結果も出せて、自分の身分のなさや現実と向き合わなくてすまなかったです。

また、仕事をしていく中で、教育業として子ども達に、勉強を通じて目標達成の機会をつくりだし、自信をつけていくということが、実現できるとしたら、それは素晴らしいことだと思いました。

子どもがいきいきと自分の欲求に素直に自信をもって生きていける世の中になったら素晴らしいなと思うんです。

上司のSさんという方にも、評価してもらって、歩合ではなく月給+歩合給で働かしてもらうことになりました。

この間、自分は「経済的自立」ばかり考えていました。

はれて、報酬も月給がついたことで安定し、一人暮らしをすることになり、一旦の目的は達せられました。そこからは。東海校の運営も任されるようになり、やりがいは増えていきましたが、やっぱり人とつきあうことは難しいと思いました。

いや、自分としてのまた勝手に描いた理想が高すぎて、どんどん自分を苦しめて、どんどん自分を閉ざしていってしまいました。

「リーダーとして、ビジョンを描いて、史恵徴する戦略を提示実行し、利益をもとに社員へ還元していく」というかっこいい像、自分が認められる像の前に、徐々に徐々に無力感に苛まれていきました。

そして先行きも全く見えなくなってしまったため、耐えきれなくなってしまいました。

ただ、なんとか生きていくため、社会的に認められるため、転職活動を行いました。

大学の友人達が立派に働いている中、ある程度ちゃんとしたところで働かないとという気持ちも大きく、また人の教育に近しい人材業界ということで、今の会社にすべりこみました。

そこから、なんとか毎日を過ごしていますが、気づけば毎週末を待ち望んでいる日々になってしまっています。

何が嫌だ?というと全部いやになります。

否応がなく会社からは数字ということで期待され、やるべきことがあふれかえります。なんのために働いているのか?なんのために生きているのか?何が自分にとってよいことのなのか?が全然わからなくなってきています。

いや、そもそもちゃんと自分と向き合って考えられていなかったのかもしれません。
他者の要請ばかり気にして、自分の居場所ばかり気にして、自分自身のことが見えていなかったのかもしれません。

落ちるところまで落ちて、期待されなくなって、相手にされなくならないと、自分が見えてこないのでしょうか?

人と接すのも面倒くさく、いつかこんな自分の本性が暴かれるのではないか?と怖がっています。

色々と明るみになって捨てたいのに、暴かれるのを怖がっているという矛盾です。

長くなりましたね。
最後は、自分のことをつらつらと書いていました。

当時の僕は、母さん、父さんにはもっと安心させてほしかったんだと思います。そして、僕は思っていること、感じていること。もっと言いたかった、言えばよかったと。

それでも、思っていることを口に出して、もし認められなかったら!?という恐怖もあり、うまくできませんでした。

もっともっと開けて、もっともっと自分の感情に素直に、やりたいことに素直になればよかったと思います。

・・・・・

あ、ここまで徒然と書いてみてわかったことがあります。結局、僕は、母さん父さんたちに認められたかったんだなと、大切にされているという安心感がほしかったんだと思います。

中学生くらいまでは、「母さん、父さんに認められる社会的に成功とされること(人より優秀であり、独立し、収入を得ること?)」ことをしていけばいいだと、そうするべきだと思っていたのです。

しかし、一方でそれに反発する自分もおり、また喧嘩をして自分をないがしろにする二人を憎む気持ちも出てきました。

そうした時に、自分が体調を崩したり、気持ちが落ち込んだり、鬱々とすることがよくありましたね。

今思えば、あれは「認めてほしい、大切にしてほしい」というであり、一方で自分を認めてくれないなら、同じように「苦しんでくれ」という復讐でもあったのでしょう。

僕が、精神的、肉体的に弱っていれば、二人は優しくしてくれましたね。それが欲しかったのです。同時に、二人は胸をいためていましたね。それも欲しかったのです。

僕の心の根底には、そのSOSと復讐が横たわっています。
小さい頃の僕は、世界・他者=母、父でありました。
そこから、時をへることに、世界・他者が母・父以外に拡張し、いつしか他者に母・父はいなくなりました。

いや、いないようにしようとしていました。

苦しかったから、満たされなかったから。

だからこそ、「自分は一人でも生きていける」証明がほしく、どんどん二人と距離をおこうとしていったんだと思います。

僕の世界から母・父が消え、認めてほしい相手はいなくなっていました。

そのことに気づかずに、認めてもらうための手段=「勝利、優秀、独立、収入、社会的成功」を盲目的に追い求め、その道のりが脅威にさらされると、絶望的な気分になり・その姿を表現することで「SOS」「復讐」を試みる。その繰り返しだったんです。

この際限のないループから抜け出すためにも、やっぱり母さん、父さんに向き合わなければいけないと、そう今気づきました。

自分が伝えようとしないと絶対に相手に伝わらない、いや、自分が伝えようとしたって相手に伝わるとは限らない。

でも、だからこそ伝える努力をし続けないといけないのかな?とこの歳になって気づきました。

だからまず、この手紙を書いたんです。直接向き合うと、何も言葉が出てこなくなってしまうので、キーボードに打ち出してみました。これまで知っていた事、知らなかった事、含めて受け止めてもらえたら幸いです。

ではでは。