『なんぞころびやおき さいはひよいち篇』(27) | 『さいはひよいち』日本古来の人生観 常の理三つ子の魂 島根半島は勾玉宝船 山陰(島根鳥取)はたまをろち瑤大蛇 あれかし山の峠杣一日・著

『さいはひよいち』日本古来の人生観 常の理三つ子の魂 島根半島は勾玉宝船 山陰(島根鳥取)はたまをろち瑤大蛇 あれかし山の峠杣一日・著

島根県松江市東出雲町、あれかし山の峠杣一日です。
島根半島(島根島)は勾玉宝船、山陰(東方鳥取瑠璃光藥師少彦名神、西方島根極樂阿弥陀大国主神)は瑤大蛇(たまをろち)。常の理(とはのことわり)あれかし大明神鎮まる意宇の古都から常の親子(085)の物語を書いてゐます。


『 なんぞころびやおき さいはひよいち篇』


(27)


峠杣一日・著


生を授かることは、同時に死を与へられることである。


産みの神が、同時に死に神でもある道理だ。 


何も無い空間にぽつねんと居れば、すべてが迷ひだ。


しかし、的を定めて踏み出せば、迷ひごと葦の矢(あしのや)と変ずる。


迷ひが無ければ、的も定まらない。


死を抱き締めなければ、生きてはゆけないのだ。


「日本人は皆イザナミイザナギの子供(化身)なんだから、心はひとつなんだよ」と古人の伝ふやうに、和らぎの世を育むことが人生そのものと定まってゐる。


仏道でも「私は私にあらず、これを私と呼ぶ」と、やはり無我を説いてある。


有りながら無く、無いままに有る私。


歴史といふ環境の産物である私たちは、八百萬(むげん)の死の上に現れたひとつの働きなのだ。


さういへば、そんな話も聞いたなぁ……。


廻り燈籠(まはりどうろう)に、薄れる意識。


なぁんだ、これが死か……。


案外、心安いもんだなぁ……。


八岐泉(やまたのいづみ)の底へ底へと、お冥(おみゃう)たちが静かに沈んでゆく。


体を包む着物が、優雅(いうが)に舞ふ如く揺れて見えた。



【好い子の皆の合言葉を唱へよう♪】


〽️

いやさかえ

いのちいやちこ

さいはひよいち

まほらとこいは

みつのたま


南無あれかし大明神

南無あれかし大明神

南無あれかし大明神


つづく。