『 なんぞころびやおき さいはひよいち篇』
(27)
峠杣一日・著
生を授かることは、同時に死を与へられることである。
産みの神が、同時に死に神でもある道理だ。
何も無い空間にぽつねんと居れば、すべてが迷ひだ。
しかし、的を定めて踏み出せば、迷ひごと葦の矢(あしのや)と変ずる。
迷ひが無ければ、的も定まらない。
死を抱き締めなければ、生きてはゆけないのだ。
「日本人は皆イザナミイザナギの子供(化身)なんだから、心はひとつなんだよ」と古人の伝ふやうに、和らぎの世を育むことが人生そのものと定まってゐる。
仏道でも「私は私にあらず、これを私と呼ぶ」と、やはり無我を説いてある。
有りながら無く、無いままに有る私。
歴史といふ環境の産物である私たちは、八百萬(むげん)の死の上に現れたひとつの働きなのだ。
さういへば、そんな話も聞いたなぁ……。
廻り燈籠(まはりどうろう)に、薄れる意識。
なぁんだ、これが死か……。
案外、心安いもんだなぁ……。
八岐泉(やまたのいづみ)の底へ底へと、お冥(おみゃう)たちが静かに沈んでゆく。
体を包む着物が、優雅(いうが)に舞ふ如く揺れて見えた。
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【好い子の皆の合言葉を唱へよう♪】
〽️
いやさかえ
いのちいやちこ
さいはひよいち
まほらとこいは
みつのたま
南無あれかし大明神
南無あれかし大明神
南無あれかし大明神
つづく。