『なんぞころびやおき さいはひよいち篇』⑤ | 『さいはひよいち』日本古来の人生観 常の理三つ子の魂 島根半島は勾玉宝船 山陰(島根鳥取)はたまをろち瑤大蛇 あれかし山の峠杣一日・著

『さいはひよいち』日本古来の人生観 常の理三つ子の魂 島根半島は勾玉宝船 山陰(島根鳥取)はたまをろち瑤大蛇 あれかし山の峠杣一日・著

島根県松江市東出雲町、あれかし山の峠杣一日です。
島根半島(島根島)は勾玉宝船、山陰(東方鳥取瑠璃光藥師少彦名神、西方島根極樂阿弥陀大国主神)は瑤大蛇(たまをろち)。常の理(とはのことわり)あれかし大明神鎮まる意宇の古都から常の親子(085)の物語を書いてゐます。


『なんぞころびやおき さいはひよいち篇』


峠杣一日・著

あれかし山の石段を登る、蓮権現転何(はちすごんげんころびなんぞ)。

辻地蔵(つじぢざう)に手を合はせてゐると、雪の衣(ころも)を纏(まと)ふ木々の中から、巨大な人影が立ち現れた。

常鏡寺(じゃうきゃうじ)の本尊(ほんぞん)、氣巳観音(きみくわんおん)だ。

左の掌(たなうら)には鬼燈尼(ほほづきに)が乗ってをり、「やあ、久しぶり」と手を振ってゐる。

私達は、命そのものの現身(げんしん)であった。

命は言霊(ことだま)であり、事(こと・人)であり、思(こと)(育む)であった。

命はまた、息(自心・はじめのおもひ)であり、忠(まごころ・信まこと)であった。

自(はじめ)はひとつ(絶対)であり、八百萬(やほよろづ)に分身変化(ぶんしんへんげ)(相対)しても(結むすび)(自分)ひとつに変はりはない。

私達各々(おのおの)の命は絶対(なる存在)ゆゑに、他者と同じい。

相対(男女・親子・国家……)は絶対に裏打ちされてのみ存在する。

また人生といふ命の言霊は思想(しさう)でもあるから、人生観(じんせいくわん)が感情や志(こころざし)を生み育む当体(たうたい)となる。

つまりは、私達(命)そのものが「さいはひよいち」に他ならないのだ。

さて、転何が山の中腹、あれかし大明神の境内(けいだい)までやって来た。


【よいこのみんなの合言葉を唱へよう♪】

〽️
いやさかえ
いのちいやちこ
さいはひよいち
まほらとこいは
みつのたま

南無あれかし大明神
南無あれかし大明神
南無あれかし大明神

つづく。