⑤
峠杣一日・著
あれかし山の石段を登る、蓮権現転何(はちすごんげんころびなんぞ)。
辻地蔵(つじぢざう)に手を合はせてゐると、雪の衣(ころも)を纏(まと)ふ木々の中から、巨大な人影が立ち現れた。
常鏡寺(じゃうきゃうじ)の本尊(ほんぞん)、氣巳観音(きみくわんおん)だ。
左の掌(たなうら)には鬼燈尼(ほほづきに)が乗ってをり、「やあ、久しぶり」と手を振ってゐる。
私達は、命そのものの現身(げんしん)であった。
命は言霊(ことだま)であり、事(こと・人)であり、思(こと)(育む)であった。
命はまた、息(自心・はじめのおもひ)であり、忠(まごころ・信まこと)であった。
自(はじめ)はひとつ(絶対)であり、八百萬(やほよろづ)に分身変化(ぶんしんへんげ)(相対)しても(結むすび)(自分)ひとつに変はりはない。
私達各々(おのおの)の命は絶対(なる存在)ゆゑに、他者と同じい。
相対(男女・親子・国家……)は絶対に裏打ちされてのみ存在する。
また人生といふ命の言霊は思想(しさう)でもあるから、人生観(じんせいくわん)が感情や志(こころざし)を生み育む当体(たうたい)となる。
つまりは、私達(命)そのものが「さいはひよいち」に他ならないのだ。
さて、転何が山の中腹、あれかし大明神の境内(けいだい)までやって来た。
【よいこのみんなの合言葉を唱へよう♪】
〽️
いやさかえ
いのちいやちこ
さいはひよいち
まほらとこいは
みつのたま
南無あれかし大明神
南無あれかし大明神
南無あれかし大明神
つづく。