『なんぞころびやおき 大極楽本尊郷篇』
⑳
峠杣一日・著
迷妄宝船(めいまうたからぶね)の勝ち誇った高笑ひが、三途の川(さんづのかは)の空に響き渡る。
そして賽の河原(さいのかはら)の一行(いっかう)に向けて、迷妄(めいまう)の弾丸(だんぐわん)が迫(せま)る。
鬼燈(ほゝづき)が観音風呂敷(くわんおんふろしき)の秘技(ひぎ)で楯(たて)を現したが、千切れちぎれに砕(くだ)かれ灰(はひ)となって了(しま)った。
次の一撃!
螢火のお総(ほたるびのおふさ)が氣魄(きはく)の氣剣術(きけんじゅつ)で悉(ことゞゝ)く弾き飛ばし飛散(ひさん)させたが、お総(おふさ)の木太刀(きだち)は真っ二つに折れて了(しま)った。
今度こそ一巻の終はり(いっくわんのをはり)、然(さ)れば此の物語も幕切れである。
父×母=子
精神×肉体=生命
未来×過去=現在
人は無限を生きる有限のいのち、三つ子の魂(みつごのたましひ)たる一(いち)である。
言ひ換へれば、私達の心身を形成(けいせい)してゐるのは先祖であり、身の周りの全てゞあると言ふ事となる。
つまり今日食べた米も、水も空氣も音も光も、風景(ふうけい)も家屋(かをく)も時間も…私達を形作るのだから全て先祖(また其の働き)に他ならない。
私達は先祖に包まれて生かされ育まれてをり、やがて先祖(命根メイコン)となって未来を育む存在である。
即ち私達は常の命(とはのいのち)であり常の親子(とはのおやこ)、三つ子の魂たる一(いち)に他ならない。
常(つね)にある常の理(とはのことわり)を貴(たふと)び、常の命(とはのいのち)を愛(うつく)しむ事こそが人世(人生)なのだ。
此の本質を見失った隙(すき)に付け込んで来るのが、迷ひの大蛇(まよひのをろち)であり贋宝船(にせたからぶね)であり迷妄宝船(めいまうたからぶね)なのである。
あゝ、くはゞらゝゝゝゝ、いちよあれかし。
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つゞきます。