『なんぞころびやおき』(30) | 『さいはひよいち』日本古来の人生観 常の理三つ子の魂 島根半島は勾玉宝船 山陰(島根鳥取)はたまをろち瑤大蛇 あれかし山の峠杣一日・著

『さいはひよいち』日本古来の人生観 常の理三つ子の魂 島根半島は勾玉宝船 山陰(島根鳥取)はたまをろち瑤大蛇 あれかし山の峠杣一日・著

島根県松江市東出雲町、あれかし山の峠杣一日です。
島根半島(島根島)は勾玉宝船、山陰(東方鳥取瑠璃光藥師少彦名神、西方島根極樂阿弥陀大国主神)は瑤大蛇(たまをろち)。常の理(とはのことわり)あれかし大明神鎮まる意宇の古都から常の親子(085)の物語を書いてゐます。


『なんぞころびやおき』

(30)

峠杣一日・著

贋宝船(にせたからぶね)。

其れは、常の理(とはのことわり)の欠乏から迷ひの大蛇(まよひのをろち)となった人魂の、哀(あは)れ流離(さすら)ふ成れの果てだ。

「父×母=子」

常の理(とはのことわり)たる三つ子の魂といふ絶対(三つ)を見失ふと物事が相対(二つ)だけに止(とゞ)まりかねず、ともすれば未来が害(そこな)はれる。

其れは人生の本質を失念(しつねん)する事ともなるので、何をすれば好いのか分からず誤(あやま)った個人主義に陥(おちい)ったり事大(じだい)主義に流されたり、将又(はたまた)自他を怨(うら)んだりもしてしまふ。

更に自暴自棄(じぼうじき)となっては、阿鼻叫喚(あびけうくわん)の巷(ちまた)をのたうちまはる事ともなりかねない。

常の理(とはのことわり)を育めない淋(さび)しさは、生命の順行を黒雲(くろくも)に覆(おほ)ひ逆(さか)ふ迷ひの大蛇(まよひのをろち)となる。

常の理(とはのことわり)・三つ子の魂は、私達の命そのものなのである。

数多(あまた)の家々(いへゝゝ)に生命の順行の明かりが灯(とも)る時、世に蔓延(はびこ)る迷ひの大蛇(まよひのをろち)も鎮(しづ)まるだらう。

つゞく。