中学生日記【都内私立男子校生】2023年2月に中学受験、2029年2月に大学受験 -3ページ目

【第2回】深海魚、浮上のきっかけは「英語」だった

【第2回】深海魚、浮上のきっかけは「英語」だった


「英語が救ってくれた」


前回は、

中1から中3後半まで、

深海に沈んだままだった成績の推移について記しました。


今回は、

「深海からの完全な浮上」には至らなくても、その転機について書いてみます。



英語が“3教科”として評価される学校


通っている学校では、

英語が次の3つに分かれて評価されます。

• グラマー

• リーディング

• 英会話

つまり、

英語1科目で、評定は実質3教科分。


これは、あとから振り返ってみて

「本当に救われた構造だった」と思う点です。


進学校には、

得意科目を複数持っている子が集まっています。

その中で、平均以下からのスタートは、やはり厳しい。


英語も例外ではなく、

最初は決して得意ではありませんでした。


それでも、

学年が上がり難易度が上がるにつれて、

通塾による先取りの効果が、少しずつ出始めます。




「続いた」のは、英語だけだった


他教科の塾は、ことごとく拒否。

そんな中で、なぜか英語だけは通い続けることができました。


理由を挙げるなら、

・大学受験を意識していない

・座学中心ではない

・参加型・アウトプット型の授業

・先生方の海外経験談が刺激となった


結果的に、

J PREPのスタイルが息子には合っていました。


「英語を選んだ」というより、

「最後まで残ったのが英語だった」



(J PREP の広告みたくなったので…

デメリットもご報告)

Jは、前述のとおり大学受験や学校の授業に沿ったシラバス(計画)ではありません。

実践英語を目的にしていることから、

英検や学校の成績に効果が現れるのにタイムラグがありました…


実際、中1の英語も平均以下で

先どり効果がなく

悲しいスタートでした😭


当初は得意科目なし😩


辛かったです😭


次回予告

【第3回】「得意科目をきっかけに自走をはじめた」こと

【第1回】深海から浮上:サピ偏差値51のその後 ― 成績推移の記録(中1〜中3)

【第1回】深海から浮上


サピ偏差値「51」のその後 ― 成績推移の記録(中1〜中3)


背伸び校に合格できたとしても、

輝かしい6年間が約束されるわけではありません😭


我が家も例外ではなく、

中1からしばらくの間、いわゆる「深海魚」でした😥


※本記事は

「深海に沈んだ我が子が、時間をかけて少しずつ浮上した一例」です。

華やかな成功談ではありません。


中学受験の受験校選び、

又は、

どなたかの気持ちが、ほんの少し軽くなれば幸いです。


「進学校に入ってしまえば、学校が引き上げてくれる😘」

そんな期待は、

早々に打ち砕かれました…😩


【息子の中学受験時の立ち位置】

•サピックス偏差値:2年間平均 51🥺

•中学受験直前期SO:4回平均 54🧐

•サピ偏差値50代後半校に合格🌸


↓ サピ2年間の偏差値推移

少しでも偏差値が高い中学校へ入学させることが正義と思っていましたが、息子の自己肯定感を喪失させてしまったことから振り返ると…


当家の場合、

(1月に栄東に合格してた前提で)

2/1    ◯学 56

2/2  ⬜︎⬜︎ 54

2/3   ⬜︎⬜︎   56

の受験が正解だったかも…

【通学校の進学状況(目安)】

•上位◯◯%:東京一科医

•下位20%弱:浪人でマ⚫︎チ、進路不明


【中学3年間の成績推移(約300人中)】


中1

1学期中間:280位(深海)

3学期期末:240位(まだ深海)


正直、かなり堪えました…🥺

勉強はしない…

通塾は涙で拒否…

声を荒げても、

状況は悪化するだけ…


「言いたいことを我慢して見守る」

それが正解なのかも分からないまま

暗中模索の

耐える修行期間が始まりました😔


中2

1学期中間:282位(深海・再突入)

3学期期末:190位 ???


「もしかして、深海から上昇?!」

と浮ついたけど…

期待しすぎないよう胸に言い聞かせ

落ちる時は落ちる恐怖に

耐え忍んだ一年


中3

1学期中間:223位

 「また沈むのでは」と焦る 💦


2学期期末:182位

派手な伸びではありません。

ただ、深海にいた身からすると

まぐれの順位じゃない手応えを感じ

視界が一気に明るくなる順位…

とは言っても…

若干、

  今も余談を許さない緊張感あり…

  「また沈むかもしれない」

   その不安と隣り合わせで、

   今日も様子を見ています…


↓     上図 中1の順位

  中段 中2の順位

  下段 中3の順位


↓ 中学3年間の順位


次回予告

【第2回】浮上のきっかけは「得意科目を1つ作る」こと

ヨセミテ国立公園と「Patagonia」

【まとめ】

・ヨセミテがクライミングの聖地になる

・パタゴニア創業者イヴォンもヨセミテ・クライマーのひとり

・イヴォンが近代クライミングの礎をヨセミテで築く

  (ヨセミテでカリスマ的なクライマーとなる)

・その頃、ノースフェイス創業者と親交を深め、

 一緒に南米パタゴニア遠征

・遠征後、イヴォンはクライミング用品店を、

 アウトドアメーカー「パタゴニア」として事業拡大


以下、時系列で紹介


1957年 

ハーフドームの崖は「究極の壁」とされていたがクライミング成功者が現る!→世界的ニュースとなる!


翌年の1958年には、

世界最大級「エル・キャピタン」までもクライミングに成功する者が現れる!


世界中からヨセミテに挑戦者が集まる!


以下、渦中でパタゴニア創業者が頭角を現して行く…


↑上記より一部抜粋


パタゴニアの沿革


1938年、アメリカ・メイン州リスボンに生まれたイヴォン・シュイナード。

終戦後の1946年、母のひらめきで一家はカリフォルニアへ移住する。

この地が、彼の運命を変えることになる。
少年時代を過ごしたカリフォルニアは、まさに登山者の聖地。若きイヴォンは、ロッククライミングの魅力にのめり込んでいった。

やがて彼は、岩登りの道具に不満を感じ始める。「もっと良くできるはずだ」。そう考えた彼は、自ら鍛冶技術を習得し、独自のピトン(岩壁に打ち込む金属製の支点)を製作するようになる。当時の主流は一度きりの使用を前提とした軟鉄製だったが、イヴォンは繰り返し使用可能な硬鋼製ピトンを開発。ビッグウォールでのクライミングを劇的に効率化する画期的な道具だった。

↓ 今もカリフォルニア本社の裏に鍛冶屋小屋を残している!



↓ カラビナは元々は独軍で考案されたが、アルミ製軽量カラビナを登山で普及させたのはイヴォンという記事をたまに目にするよ!

春から夏にかけてはヨセミテで岩を登り、秋から冬にかけては道具を作り売って生活する



1963年 25才にはカリスマ的な存在となっている。↓


――そんな生活を経て、

1965年にはクライミング仲間と共に「シュイナード・イクイップメント」を設立。


1966年、クライマーであり、鍛冶職人でもあったイヴォン・シュイナードに、運命的な出会いが訪れる。
相手は、アウトドアブランド|THE NORTH FACE|の創業者、ダグラス・トンプキンス。

当時、ダグラスが運営していたマウンテンギア専門店で「シュイナード・イクイップメント」の製品を取り扱っていたことが、ふたりを引き合わせた。

意気投合した彼らは、

早々の1968年イヴォン30才の時、半年に及ぶ南米の旅へと出発する。

目的地は、チリとアルゼンチンにまたがる辺境の地「パタゴニア」。

↓ パタゴニアから販売されている旅行記



クライミングと探検を軸にしたこの冒険は、イヴォンの価値観を大きく揺さぶり、後に立ち上げるブランド|patagonia|の思想と名前に深い影響を与えることになる。

本書、最後の寄稿頁は2015年にご逝去されたノースフェイス創業者ダグの回顧記事です。



この旅を通して築かれた友情は、ダグが亡くなる2015年まで続いた。そしてイヴォンは、ダグが妻スザンヌと共に展開していたレディースアパレルブランド|ESPIRIT|が、いち早く取り組んでいたサステナビリティや労働環境改善の実践からも大きな学びを得ていた。


名もなき旅が、ふたりの思想とビジネスを形作っていった。パタゴニアというブランドの根底には、この「友情と探求の精神」が脈々と流れている。

↓ノースフェイス創始者と共に南米パタゴニア山脈を目指して車を走らせている写真


↑🏄サーフトリップしながら南下したそうです!

だが、繁栄の陰で環境への代償も見えてくる。

久しぶりに訪れたヨセミテのエル・キャピタンの岩肌が、自ら作ったピトンによって傷つき、変形していたのを目の当たりにしたイヴォンは衝撃を受ける。そして、クライミングそのものが自然を壊しているという矛盾に気づいた彼は、勇気ある決断を下す。


ピトンの製造から手を引き、代替品として「ストッパー」や「ヘキセントリック」といった“自然を傷つけない道具”を開発。 これはクライミングスタイルの転換を促し、その後のスタンダードとなった。


この出来事は、イヴォンの思想に大きな転機を与える。


「環境を破壊してまで登るのは、本当に意味があるのか?」
道具を売るために自然を犠牲にしない——この哲学が、のちにpatagoniaを世界的なブランドに育てていく強烈な原動力となっていく 

↓

パタゴニアの新たな戦略

1980年代

モンベル創業者とパタゴニア創業者が親交を深め、

モンベルがパタゴニア製品を国内で販売

↓モンベル50周年 機関紙より



↑モンベル創業者とパタゴニア創業者


1986年 夏季の売上向上を目指して「pataloha」設立

   ↑ patagonia + aloha (ハワイ)

    アンバサダー(大使:ブランドイメージ)は、        ハワイの女性サーファー「 レラ・サン 」↓

めちゃめちゃ慈愛に溢れた良い人だったようです…

47歳で乳癌にてご逝去…

↓関連記事


1988年 鎌倉に日本法人の事務所設立(店舗準備)

    (モンベルはパタゴニア代理店を円満辞退)

1989年 国内初の店舗を目白にオープン!

1991年 「逆境から未来の指針を見つけた年」

本国アメリカ法人では、不景気のあおりを受けて、人員20%削減というリストラが実施された…経営幹部10人と原点であった南米パタゴニアを旅して、毎夜、将来の健全な経営方法についての議論と自問をしたそうです…その際の答えは「持続不可能な成長に頼っていた…」、「社員全員が同じビジョンを持つことの重要性…」など、今の経営骨子が生まれて共有されたそうです


1994年 鎌倉にも2号店として販売店舗オープン!

↑ 毎年、1億ドルが配当金として自然保護団体へ配当されるシステムだそうです!!!




「patagonia」と私


高校〜20代、

公立高校だったので、制服以外の靴や靴下は自由だったことから、オシャレでお金持ちの娘らの間では、制服に、ティンバーランドの革靴とラルフローレンのソックスを合わせるのが流行した。

私もアメリカブランドを身につけることに憧れ、比較的安価なLLビーンのトートバッグを私服に合わせた。アウトドアを楽しむ始まりとなった…




その頃、知的でオシャレな先輩に勧められたのが #パタゴニアだった…

高額だけど、それには理由がある。

利益の一部が自然保護団体に寄付され、環境に配慮した素材で作られている――。


また、テレビのコマーシャルでは「24時間、働けますか!」というキャッチコピーで栄養ドリンクが販売されている中、パタゴニア社では、海の波が良い日は店舗を閉じてサーフィンへ行け!社員が自然を楽しまないと良い製品は生まれない!という今でも考えられない労働環境を紹介する話も聞いた!←本当は、一部間違い…


↓ 本当は「店を閉じる」ではなくて、フレックスタイムの導入を時代に先駆けて推奨していた…

パタゴニアでは、社員に豊かで満ち足りた生活を送ってほしいと思っている。働き方は柔軟で、これは、波が2メートル近く、波面がきれいで暑いときには作業をやめた鍛冶屋時代からの伝統である。周囲に迷惑をかけずに仕事をこなせるかぎり、好きな時間に仕事をすればいいというのが我々の考え方である。(社員をサーフィンに行かせよう P.270)


(一部、間違った理解が若気の至りである中…)

「なんて素敵なんだ!」と心が震えた…


ただのファッションじゃなく、身につけるものに“思想”や“知性”が宿る感覚…


しかも当時は目白にしか店舗がなく、誰も持っていない希少さが私の自尊心を満たしてくれた。


これ以降、私はパタゴニア創業者イヴォン・シュイナードのファンである!


1999年には、ハワイのノースショア店にもレンタカーで足をはこんだ!

ナビもない時代だったので、途中、途中で道を聞いて辿りついた!

ワイキキのブランド街とはかけ離れた田舎で、

小さな木造の店構えが、イメージどおりだった!


ノースショアの力強い波も今だに脳裏に焼き付いている…



2025年、

子供に恵まれ、大きくもなったので、ヨセミテ国立公園への旅を計画した!

道中、米国でのサーフィン発祥の地と呼ばれるサンタクルーズにあるパタゴニアへ寄り道して、息子にパタゴニアの精神を伝えた…

(車旅(ロードトリップ)は、息子と一杯おしゃべりできて楽しい😊)



息子(中3)もヨセミテ国立公園で自然に触れ、パタゴニアの精神である地球に優しい人間になってほしいことを願う



↓ヨセミテ国立公園ハーフドーム登頂記