怪我の程度は目に見えても

怪我の痛みの強さまでは

他人がクリアに感じ取ることは難しい叫び


心や身体の病の苦しさは

怪我の痛み以上に

外からは分からないと思う。


たとえば。


大怪我をして

ベッドから動くことも禁じられている子どもに、

「早く学校に行きなさい」という人は、

めったにいないと思う。


だから。


不登校の子どもに、

登校刺激は良くないということが、

常識のように広がってきたように、


行くことを強要しない


というのは、

まだ、わかりやすいのかもしれない。



だけど。


上の記事の話は

かつて、全くわからなかった言葉だけど、


なんとなぁく、こういうことかなと、

感じるようになっていった。




大怪我をして、ベッドに固定されている子供が、

「早く学校に行きたいよぉえーん

と、泣いている時、


その子供に向かって、

「学校に行かなくていいよ」って言葉を、

発するだろうか??


それこそ、

逆にすごく、冷たい人間じゃない??



行きたいと言ってるのに対して、

「行かなくていいよ」なんて、

ナゾの噛み合わない

上から目線の許可の言葉。


それこそ、

なんでアンタにそんな許可されなアカンねんむかつき


すごく、失礼泣くうさぎ??



「学校に行きたいよね」


その思いをちゃんと聴いて共感する。


寄り添うって、そういうことでははてなマークはてなマーク



上矢印でも、いろいろ、考察をしては見たけれど。


そして、その願いが叶うように、

必要なサポートをすること。


自分の不安を解消するために、

動き回るんじゃなくて。



じゃあ。


「行かなくていいよ」

という言葉は、絶対、ダメなのか??


絶対はてなマーク

そんなことはないんじゃないはてなマーク



たとえば。


その大怪我を負ったのが、

登下校中の事故だったり、学校内だったりで、


「怖くて、学校にもう行けない!

と、トラウマで子供が泣き叫んでいるのなら、


「怖かったよね」と共感して、


行かなくていい、

今は学校のことなんて考えなくていい、


そんな言葉が、自然に出てくる気がする。



怪我が治って、気持ちが安定して、

学校のことは、またそれから。


ってことにもなる気がする。




「行かなくていい」


その言葉に

救われる子どもは少なくないと思う。


必要な子どもはいると思う。


必要な段階、タイミング、タイプ、などなど、

それは、あると思う。


その言葉自体がNGとは思ってない。


「行きたい」「行きたいのに行けない」

という子供だけでなく、


はなから、

「行きたくない」子供だっている。


通っていても、

行かないという選択肢は

考えられなかったけど、


それでも、

私は行きたくない方の子どもだった。




必要なのは、

「その時」の思いをきちんと聴くこと。


親の不安解消のために、

聞くことをシャットアウトして、

テクニックに走るとか、


形だけを取り入れることでは、絶対にない。




それは、今振り返ると、

大事なことだったと思う。


今だからこそ、そう思う、とも言う。