呪縛なのか?習慣なのか?24時間テレビについて考える | 愛犬ボスの交通事故

愛犬ボスの交通事故

事故に遭ってしまったボスの闘病記 / 事故後対応の進捗

皆さんは日テレの24時間テレビを観ますか?
観ませんか?

私はそう聞かれたら観ると答えるが、
ここ数年?大人になってからか?
子供を産んでからか?
観なくてもよいかと思う事もしばしばですが
結局所々観てしまうと言うのが呪縛なのか?習慣なのか?

子供の頃のように純粋に観れなくなった自分に気づくことばかりです。
例えば、
なぜ、障害者を頑張ってるアピール、見て!感動するでしょ?的な番組なのか。
頑張っているのは健常者も同じであり
障害者がこんなにも頑張ってます!と言えば言うほど差別または区別に繋がるし
何かそこに違和感を感じます。

次に、
沢山の有名人が出演。
総額のギャラはいくらになるのか?
ギャラはいらない!
何割は寄付すると志願する芸能人はいるのか?
寄付を全国区で募るのであれば
出演の依頼が来て、出るなら
出演者もきちんと寄付するのが好感が持てます。
海外はボランティアや寄付は辺り前で
有名人になればなるほど何かしら支援されてる方が多いが
日本は涙とお金は別!のような腹黒さが見えて何だか嫌な気持ちにもなります。

障害者を五体満足な有名人が取材したり、一緒に何かやったり。
観てる私もそうですが、
五体満足に産まれて良かったと思う自分が何だか非情な人間に思えるというか、
そういう思考になってしまう番組って本当に良いのか?と難しく考えてしまいます。

それから、番組で取り上げられる障害者はほんのわずかな人達です。
世の中には沢山いるのに頑張ってる人も家族も沢山いるのに
ほんの一握りの人にしかスポットライトは当たらず。

なんだか不公平?こういうのを何というのか?

それから、真夏の炎天下に熱中症と隣り合わせな中マラソンしたり?
身体を痛めてまで走り続けたり、
こんだけパワハラ、虐待など敏感な社会になってる中で時代錯誤な感も出てきてる気がします。
最近の暑さは異常ですし、
何十年も前のランナーと今のランナー、身体の負担や危険性が違い過ぎます。

番組の最後に寄付金の額もでますが
何にいくら、どんな場面、どんな事に、
残金これだけあります、来年繰り越します的な収支報告はわからないし。
番組内でここにフューチャーした時間や内容があってよいと思います。

今はこの番組が始まった1970年代とは
社会や気象や人間も何もかも変わっていると思います。

寄付一つもネットで簡単にできるし、
多種多様な世の中になりました。

観てる私は夏、夏休みの終わり頃毎年なんとなく当たり前に観てしまう番組でしたが
なんとなく当たり前に観るには
時代錯誤が目立ち過ぎてる印象が年々募ります。

莫大な予算を費やしてるこのお祭り企画な番組より、

謹慎期間に老人ホームなどで密かにボランティア活動に尽力されてる芸人さんのほうが好感がもてるのはなぜだろう。

本当のボランティア精神を
きちんと次世代に伝えてほしいです。

お涙ちょうだいな番組は
何か違うし、
障害者を障害者とより位置づけ、差別化してるようにしか思えず。
悪く言ってしまえば
健常者が健常であることに優越感に浸れる?
なんとも皮肉な番組なのかと疑問が増えるばかりで。

障害を持ってる方が懸命に生きるのは涙で観るものでなく、
何か違う形があるはず。

障害者も健常者も同じ人間!と誰もが思い
誰もが助け合える社会なら
そもそもこのような番組はできなかったのではないでしょうか?

どこかで障害者を見下したり、可哀想と思ったり弱者と扱う気持ちがこの番組に見え隠れしており
複雑な気持ちになってしまいます。

前に
違う番組で障害者だけの番組ですが
出演されてた方々は24時間テレビは観ないと話されてました。
やはり当事者もそう感じているんだとなんだか安心した思いがあります。

盲導犬、介助犬育成、公共機関の整備。生活の補助、就職支援。
もっともっと早く進める事が
何よりもの健常者ができる事ではないでしょうか?

正直、マラソンで走った所で
VTR観て涙流した所で、障害のある方々たちには何の助けにもならない。

もっとやるべき事、もっともっとお金をかける事
それこそ障害のある方々の方が泣いて喜ぶような事を沢山できる国であるべきと思います。

障害者、健常者と分けた表現も嫌ですが文で伝えるにはこれしかなく。

不快な思いされた方がおられましたらすみません。

身体は健常者でも心が障害者な場合もあるし、
身体は障害者でも心は健常者な場合もある。

そう思うと
この垣根は早々に無くさねば良い社会にはならない。
むしろ、心が障害者な人は増えています。
最近の事件事故を見ればわかります。

人を見た目で判断しない
そんな世の中になってほしいです。