息子は外食、私はL菜にご飯を作った日
昨日、息子が「友達とご飯食べてくるから」とLINEをしてきた。
ああ、今日は作らなくていいんだ。
ホッとした反面、なんだか手持ち無沙汰で。
キッチンに立って、冷蔵庫を開けて、閉めて。
気づいたら、L菜の前にいた。
「今日はね、Aちゃん外食なんだって」
そう話しかけながら、私は自然とご飯を炊き始めていた。
息子の大学受験が1つ終わって、三人の子育てが一区切りついた。(まだこの前の受験した大学の合格発表はまだですが...)
本当は、ここから「自分の時間」が始まるはずだった。
でも、蓋を開けてみたら、何もやる気が起きない。
仕事も、家事も、すべてが重たくて。
「どうして生きていったらいいんだろう」
そんな言葉が、頭の中をぐるぐる回っている。
5月にL菜が亡くなってから、私はずっと「息子の受験」という目標に支えられていた気がする。
L菜が大学3年生になったばかりの、あの日。
彼女は、もう戻ってこない。
でも、息子の受験があったから、私は何とか立っていられた。
いや、立っていられたというより、L菜が私を立たせてくれていたのかもしれない。
そして今。
重圧から解放されたはずなのに、心が力を失っている。
体が動かない。
朝起きても、何をしたらいいのかわからない。
「無気力」という言葉が、こんなにも重いものだとは思わなかった。
でも、昨日。
息子が外食で、作る必要がなかったはずのその日。
私は、L菜にご飯を作った。
「体が動かない」と思っていたのに、気づいたら炊飯器のスイッチを押していた。
お味噌汁も作って、L菜の好きだった卵焼きも焼いた。
L菜の前にお膳を並べながら、ふと思った。
私、動いてるじゃん。
無意識のうちに、最も大切な娘への愛情を、行動に変える力が残っていたんだ。
少しだけ、専門的な視点から。
喪失後の無気力感は、「燃え尽き症候群(バーンアウト)」に似た状態になることがあります。
長い間、悲しみと重圧の中で頑張り続けた心と体が、「もう休んでもいいよ」とサインを出している状態。
これは決して怠けているわけではなく、心が自分を守ろうとしている、自然な反応なんです。
無理に「やる気」を出そうとしなくていい。
今は、心が求めている休息の時間なのだと思います。
L菜へのお供えのご飯。
それは、単なる食事じゃない。
愛の継続であり、命のつながりであり、日常の再構築なんだと気づいた。
- 「私は今もあなたを思っているよ」という、天国のL菜へのメッセージ。
- 悲しみの中でも、L菜の存在を日常の一部として受け入れようとする、私の力。
- ご飯を作るという行為を通して、L菜と繋がっていることを感じられる、大切な時間。
息子のためのご飯は、今日は作らなくてよかった。
でも、L菜のためのご飯は、作れた。
それでいいんだと思う。
今の私には、「L菜を思い続けること」がある。
そこから、少しずつ始めてもいいんだ。
無理に大きな目標を持たなくても。
ただ、温かいお茶の香りを嗅いだり。
日の当たる場所でぼんやりしたり。
L菜との思い出に浸りながら、彼女が好きだったものを少しだけ味わったり。
それだけで十分。
生きる理由や、大きな目標を見つけなくていい。
今すぐ「やる気」を取り戻さなくてもいい。
体が動かない日があっても、誰かを思う心は動いている。
それが、今の私の「生きる」なんだと思う。
同じような気持ちの方がいらしたら。
どうか、ご自身を責めないでください。
休むことも、動けないことも、すべて心が必要としている時間です。
そっと、自分の心に手を当てて。
「よく頑張ったね」と、労ってあげてください。
L菜へ
ありがとう、L菜。L菜がいてくれたから、ここまで来れたよ。
L菜、母ね、少しずつだけど、生きてるよ。見守っててね。













