coarato  見えない手をつないで

coarato  見えない手をつないで

シングルマザー歴16年。子育てと仕事に励む中、最愛の娘を突然亡くしました。今も揺れる心を言葉にしています。

ただまた会えると信じて。

大切な娘を突然亡くし、深い悲しみの中で、気持ちの整理もつかないまま始めたブログです。
日常のこと、彼女との思い出、そしてこれからの生き方。

書くことで心を保ち、少しでも前に進めるように記録していきます。
同じように大切な人を亡くした方に届けばうれしいです。

 

 

 

おはようございます。

 

今朝は「今日はやめようかなぁ」と少し迷いながらのスタートでした。

 

でも一歩外に出て歩き始めると、あまりの気持ちよさに、いつのまにか20分コースから30分コースへ変更していました。

 

昨夜は雨が降っていたようで、草木の香りがいつもより深く感じられます。

 

葉っぱについた水滴が朝日にキラキラ光っていて、とても生き生きとしていました。

 

深呼吸をしながら歩く散歩道。

 

実は、目標にしていたある場所まで歩いてきたとき、「ここまで来てやったぞ!褒めてよ。」と心の中で小さくガッツポーズをしました。

 

そこは、娘が以前、標語で賞をいただいた思い出の看板がある場所です。

 

看板そのものは載せられないけれど、ここまで頑張って歩いてきたこと、お空から見ていてくれたかなぁ。

 

心も体もじんわり温まる、素敵な朝の時間になりました。

 

今日も穏やかな1日になりますように。




 

 

当たり前に、一緒に

 

 

今日も一日が終わります。

 

朝起きて、ご飯を食べて、いろんなことをして。

そして夜になりました。

 

特別な一日ではありませんでした。

 

でも、今日という一日は、もう二度と戻ってこない。

 

そう思うと、何でもない一日も、少しだけ愛おしく感じます。

 


 

L菜も一緒に、実家へ行った日

 
 

今日は、分骨している私の家のL菜の遺骨を、実家に持っていきました。

C菜と一緒に。

 

我が家では、お盆とお正月になると、いつもそうしています。

 

実家へ行くときは、L菜も一緒。

 

今日も、

「L菜、行くよ」

と声をかけました。

 

C菜は、いつものようにL菜を抱いていきます。

 

その姿を見ながら、ふと思いました。

 

これは、何の意味があるんだろう。

 

お盆だからなのかな。

供養だからなのかな。

 

いろんなことを考えました。

 


 

 

でも、しばらく考えていて、

「別に、そんなに難しく考えなくてもいいのかもしれない」

 

と思いました。

 

生きていた頃のお盆やお正月は、みんなで実家へ行っていました。

 

途中で美味しいものを食べたりして。

 

実家に着いたら、のんびりしたり、くだらない話をしたり。

 

L菜も、いつもそこにいました。

だから今も、

「L菜も一緒に行く」

それだけなのかもしれません。

 

誰かに教えられたからでもなく、

お盆だから、こうしなければいけないからでもなく。

 

ただ、

「L菜も家族だから、一緒に行く」

それだけ。

 

 

 

グリーフについて書かれたものの中には、亡くなった人とのつながりを心の中で持ち続けることを、決して「前に進めていないこと」とは考えない捉え方があります。

 

心の中で話しかけたり、思い出を共有したり、今までと同じように一緒にいる感覚を持ったり。

 

そういうことも、悲しみを抱えながら暮らしていく中の一つの形なのだと思います。

 

だから私も、無理に「もういないんだから」と区切らなくてもいいのかなと思っています。

 


 

 

今日は実家へ向かう途中で、母とラーメンを食べました。

 

L菜……じゃなくて、L菜も一緒に。

 

こうして書いていると、なんだか普通の家族のお出かけみたいです。

 

いや、ラーメンまで食べているし。

お盆なのに、ちゃんとラーメン。

 

こういうところは、我が家らしいなと思います。

 


 

実家に着いてから、私はお墓参りをしました。

 

ご先祖様や、弟に。

「L菜を見守ってくれてありがとう」

「私たちのことも見守ってくれてありがとう」

「L菜を頼みます」

 

そう伝えました。

 

何か特別な言葉が出てくるわけではありません。

 

でも、伝えたいことは、それだけでした。

 


 

image

 

久しぶりに、母がとてもうれしそうでした。

 

孫が揃う。

 

それが、何よりうれしいんだと思います。

 

L菜の好きなばあちゃん。

そんな母の顔を見ていると、

私も、残された時間を大切にしたいと思いました。

 

母を喜ばせるために、何か大きなことをしなくてもいい。

 

みんなで集まって。

美味しいものを食べて。

くだらないことで笑って。

 

そんな時間を、これからも少しずつ作っていけたらいい。

 


 

 

今日、何かが解決したわけではありません。

 

L菜がいない寂しさも、なくなったわけではありません。

 

それでも今日は、

C菜がL菜を抱いて、

「一緒に行くよ」

というように実家へ向かいました。

 

私も、

「L菜、行くよ」

と声をかけました。

 

そして母は、孫が揃ったことを喜んでいました。

 

それだけの一日です。

でも、私にとっては、

とても大切な一日でした。

 


 

今日もL菜に、いろんなことを話しました。

 

「今日はこんなことがあったよ」

「おばあちゃん、うれしそうだったね」

「一緒にラーメン食べたね」

心の中でだけの会話だけれど。

 

私はこれからも、こうしてL菜に話しかけていくんだと思います。

 

毎日じゃなくてもいい。

言葉にならない日があってもいい。

悲しくて、何も話したくない日があってもいい。

それでも、心の中にL菜との会話がある。

今の私には、それでいいのだと思います。

 


L菜へ。

 

 

「今日はみんなでばあちゃんちに行って、ラーメンも食べて、お墓参りもしたね。

なんだか、いつもの一日みたいだったね。

今日も一緒に行けてよかった。

また明日、くだらないことから話そうね。」

 

 

 

 

 

 

今朝は少し足を伸ばして、朝の散歩に行ってきました。

 

ふと耳を澄ませると、どこからかツクツクボウシの声。

 

まだ暑さは残っていますが、季節が少しずつ進んでいるのを感じます。

 

川面に雲が綺麗に映り込んでいて、まるで鏡のようでした。

 

image

 

水面にはカモたちが気持ちよさそうに泳いでいて、とても穏やかな景色です。

 

今日は双子の姉と一緒に歩きました。

 

妹のことも、心の中で一緒に連れて。

 

静かで、温かい朝の時間でした。

 

お盆だから帰ってくるの? 毎日想っている私が思うこと

 

 

 


 

お盆の過ごし方に、正解なんてあるのかな?

 

 

 

お盆。

 

仕事から帰ってきたら、家の中から笑い声が聞こえてきました。

 

お盆で姉が帰ってきているからです。

 


 

なんだか、家が久しぶりに賑やかです。

 

何もなかったところに、明かりがついたような感じ。

誰かがいるって、それだけで家の空気が変わるんだな。

 

そんなことを思いながら、少し離れたところでその笑い声を聞いていました。

 


 

そして、ふと思いました。

「お盆なんだな」

 

職場でも、お店でも、どこでもお盆という言葉をよく見かけるようになります。

 

迎え火。

送り火。

キュウリやナスで作る精霊馬。

お供え物。

お墓参り。

 

ご先祖様が帰ってくる。

 

そんな言葉が、あちらこちらから聞こえてきます。

 


 

そういう話を聞いていると、

「私は、どうしたらいいんだろう」

と、少し考えてしまいます。

 

L菜が亡くなってから、2度目のお盆です。

 

去年は、まだL菜が亡くなってから数か月。

 

お盆のことを考える余裕なんて、ほとんどありませんでした。

 

ただ毎日を過ごすだけで精一杯だったと思います。

 


 

今年は少しだけ、考える余裕があります。

それで、いろいろ調べてみました。

 

お盆は、地域や宗派によって時期や風習が違います。

 

迎え火や送り火をしたり、キュウリを馬、ナスを牛に見立てたり。

 

「早く帰ってきてもらえるように馬で来てもらって、帰りはゆっくり牛で帰ってもらう」

そんな意味が込められているといわれています。

 

なんだか、昔の人の優しさを感じます。

 

「行きは急いでね。でも帰りはゆっくりでいいよ」

そんな感じでしょうか。

 


 

ただ、調べていて知ったのは、

お盆の過ごし方は、宗派や地域によってかなり違う

ということでした。

 

私の家は浄土真宗なので、一般的に知られているお盆の風習とは少し考え方が違います。

 


 

へえ。

そうなんだ。

同じ「お盆」でも、考え方が違うんだな。

そう思いました。

 


 

そして、ここで私は少し迷いました。

 

じゃあ、

私はどうすればいいんだろう。

 

キュウリとナスを用意したほうがいいのかな。

迎え火は?

送り火は?

お供えは?

お墓参りは?

 

……と、考え始めると、なんだか急にやることが増えてきます。

 

お盆って、意外と忙しい。笑

 


 

でも、ふと考えました。

 

私は、毎日L菜のことを想っています。

 

朝起きたときも。

ご飯を食べているときも。

仕事から帰ってきたときも。

何か面白いことがあれば、

「L菜がいたら、これ見て笑ったるかな」

と思います。

 

悲しいことがあれば、

「L菜に話したいな」

と思います。

 

ブログを書いているときだって、結局L菜に話しかけています。

 


 

そう考えると、

「お盆だからL菜が帰ってくる」

という言葉に、少しだけ違和感があるのです。

 

私の中では、

L菜は、お盆だけ帰ってくるわけではないから。

 


 

もちろん、

お盆に亡くなった大切な人を想う。

 

それは、とても大切なことだと思います。

 

普段は忙しくて、なかなか思い出す時間がない人にとっても、

「お盆だから、ちょっと立ち止まって思い出そう」

という時間になるのかもしれません。

 

そういう意味では、お盆という節目があることは、優しい文化なのだと思います。

 


 

そして、ご先祖様のことも少し考えました。

 

正直に言うと、

普段からご先祖様のことをずっと考えているわけではありません。

 

ごめんなさいえー

 

毎日のことで精一杯で、

「そういえば、ご先祖様のこと……」

と思うことなんて、そう多くはありません。

 

でも、お盆という時期になって、

「そういえば、私もここまで命をつないでもらってきたんだな」

と、ふと思いました。

 


 

だから私は、

ご先祖様には、ちょっと軽く感謝するくらいでいいのかなと思っています。

 

大げさなことをしなくても、

心の中で、

「私やL菜をここまでつないでくれて、ありがとう」

と一言つぶやく。

 

それだけでも、

普段は思い出すことのなかったご先祖様に気持ちを向ける、ひとつのきっかけになるんじゃないかな。

 


 

「ちゃんとしなきゃ」

と思いすぎると、

悲しみの上に、また新しい「しなければならない」が乗ってしまいます。

 

私は、それは少し違う気がしています。

 


 

グリーフの中では、亡くなった人とのつながりを、亡くなったことで全部終わったものとしてではなく、心の中で新しい形に変えていくという考え方があります。

 

思い出すこと。

話しかけること。

「こんなときL菜ならどうするかな」と考えること。

 

そういうことも、大切な人とのつながり方のひとつなのだと思います。

 

私は、たぶん毎日それをやっています。

 

だから、

「お盆だから何か特別なことをしなきゃ」

とは、もう思わなくてもいいのかな。

 


 

もちろん、

キュウリとナスを飾りたい人は飾ればいい。

迎え火をしたい人はすればいい。

お墓に行きたい人は行けばいい。

好きだったものをお供えしたい人は、そうすればいい。

 

そういう形が心を落ち着かせてくれるなら、それは大切なことだと思います。

 

反対に、

何もできない人がいてもいい。

 

お盆だからといって、無理に何かをしなくてもいい。

お墓に行けなくてもいい。

お供えができなくてもいい。

 

泣いて一日が終わってしまってもいい。

 


 

私にとっては、

L菜を想うことに、

「お盆だから」

という区切りはいらないのかもしれません。

 

今日も思う。

明日も思う。

何でもない日に、ふと思い出す。

 

それでいい。

 


 

今年のお盆。

 

私は、特別なことをたくさんするつもりはありません。

 

仕事もあります。

お盆休みも、普通に過ぎていきます。

 

その中で、

姉が帰ってきて、

家の中に笑い声があって、

少し賑やかになった家で、

L菜のことを思う。

 

それくらいでいいかなと思っています。

 


 

もし、C菜と一緒に何かしたくなったら、

小さなお盆のお祭りみたいなことをしてもいい。

 

好きなお菓子を並べてもいい。

冷たいものを食べてもいい。

キュウリとナスを作ってみてもいい。

 

「L菜、どっちが馬でどっちが牛だったっけ?」

なんて言いながら、

二人で笑ってもいい。

 

たぶん、そんなお盆でもいい。

 


 

宗教には、それぞれの教えがあります。

 

宗派によって、お盆の考え方や過ごし方も違います。

 

だから、「これが正しいお盆」と一つに決めることはできません。

私自身も、宗教のことをすべて理解しているわけではありません。

ただ、

L菜を大切に想うことまで、決められた形に合わせなくてもいい。

 

今の私は、そう思っています。

 


 

そして、ご先祖様にも、

「いつもありがとう」

 

くらいの気持ちを向けておこうと思います。

 

たぶん、それくらいが今の私にはちょうどいい。

 

難しいことは、よくわからない。

でも、

ここまで命がつながってきたこと。

 

その先に私がいて、

その私のところにL菜が生まれてきたこと。

 

そう考えると、

「ありがとう」

と言いたくなります。

 


 

家の中から聞こえてくる笑い声を聞きながら、

「L菜がいたら、ここにいたんだろうな」

と、ふと思いました。

 

悲しかったけれど、

なぜか少しだけ温かい気持ちにもなりました。

 

悲しみは、なくならない。

 

でも、その悲しみの隣に、

家族の笑い声があってもいい。

 

お盆の灯りがあってもいい。

 

冷たいアイスを食べてもいい。

 

少し笑ってしまってもいい。

 

きっと全部、

L菜を忘れたことにはならないから。

 

 


 

今年のお盆も、

私は私のやり方で、

L菜を想おうと思います。

 

特別なことができなくても、

ちゃんと大切に想っている。

 

それだけは、変わらないから。

 


 

L菜へ。

 

 

「今日は家の中が賑やかだね。

お盆も、普通の日も、ママの中ではいつも一緒だね。

今年のお盆も、特別なことはしないけれど、いつものように一緒にいようね。

いつものように、ここで一緒にいよう。

そして、明日も、くだらないこと話そうよ。」

 

 


 

 

※記事内のお盆の時期・迎え火・送り火・精霊馬については、2026年8月12日時点で確認できる浄土宗・浄土真宗本願寺派の公式情報をもとにしています。お盆の時期や風習には地域差・宗派差があります.

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

今朝は、5時に目が覚めた。

 

今日は、双子の娘(C菜)と一緒に散歩へ行く。

 

「L菜は、寝てるのかなあ」 私がそう呟くと、C菜が笑って答える。

 

 「まだ寝てるよ。だって、こんな早くに起こしたらブチ切れるもん」

 

そんな何気ない会話を交わしながら、いつもの20分コースを歩く。

 

今日も、朝の空気はひんやりと涼しい。

 

 

image

 

川面に目をやると、鴨たちがいつもの場所で待っていてくれた。

 

1人で歩く散歩と違うのは、隣にいる相手の歩幅や存在を意識しながら歩くということ。

 

C菜は、いつだって明るい。

 

 もしかしたら、母である私を気遣ってくれているのかな。

 

そんなことを考えているうちに、あっという間に20分が過ぎて帰宅した。

 

「L菜、ただいま」

 

写真の中のL菜は、優しく笑っていた。

 

誰かと歩く朝も、1人で歩く朝も、 それぞれの速度で、ただそこに風が流れていた。

 

無理に元気をださなくても大丈夫。 

 

今日という日が、どうか穏やかな風で包まれますように。