coarato  見えない手をつないで

coarato  見えない手をつないで

シングルマザー歴15年。子育てと仕事に励む中、最愛の娘を突然亡くしました。今も揺れる心を言葉にしています。

ただまた会えると信じて。

大切な娘を突然亡くし、深い悲しみの中で、気持ちの整理もつかないまま始めたブログです。
日常のこと、彼女との思い出、そしてこれからの生き方。

書くことで心を保ち、少しでも前に進めるように記録していきます。
同じように大切な人を亡くした方に届けばうれしいです。

C菜が帰ると怖いなぁ―8回目の月命日が穏やかに過ぎた理由

 

 

今日、メルティーキッスを1箱食べました。

 

一気に。そして、胃もたれ。

 

私は極端みたい。食べ出すと止まらなくなってしまう。

 

おいしいんだよね、これがまた。

 


 

 

 

 

 

爆食いしてしまいました口笛

 

 

L菜が亡くなって、あの子の好きなチョコレート。

 

食べる人がいなくて。

 

私食べるんだけど、胃もたれするんだよね。

 

あの子の好きなチョコレートばっかり買うんだけど、チョコレート私そんなに食べれなくて。

 

めちゃくちゃチョコレートいっぱいある。

 

買い物に行くと、あの子が好きだろうなって買って、私はそんなにチョコレートを食べないから積もり積もって。

 


 

 

どうしてもあの子と一緒に食べたいという気持ちが募って食べてしまう。

 

一緒に食べている感覚で、ついつい。

 

そういえば、分骨したL菜は、今ね、お正月だから、実家に持っていってる。

 

双子はいつも一緒だったから、C菜と一緒に行ってる。

 

私は仕事だから、一足早く家に帰ったんだけど。

 


 

 

姿が見えないと、なくなった実感がわかないんだよね。

 

ほんとなのかなって。

 

静かな家の中で、「どこかにいるような」感覚。

 

亡くなったという事実は頭ではわかっていても、心はまだ、いつものようにどこかからひょっこり現れるのを待っているような。

 

姿が見えないからこそ、かえって「本当にいないなんて嘘なんじゃないか」という感覚。

 

今ね、大丈夫なんだ。不思議とね。

 


 

 

子供を亡くした親って、5年間もこのような苦しみが続くってほんとかなぁ。

 

だったらかなり残酷だ。

 

双子の姉が帰省してる時は、C菜が元気いっぱいだから、つられて、私も元気になるの。

 

だけど、いなくなったら…

 

しょうがないんだけどね。あの子も、大学で頑張ってるし。

 

8回目の月命日は、こんな感じでなごやかな感じで過ぎ去っていった。

 

C菜が帰ると怖いなぁ。

 


 

 

 

C菜が帰省している間は、家の中にパッと灯がともったように明るくなります。

 

双子だからこそ、C菜の中にL菜の面影や、二人が持っていた特有のエネルギーを感じて、私も自然と力が湧いてくるんだと思います。

 

だからこそ、C菜が大学に戻って「静けさ」だけが残った時の反動は、どうしても大きくなってしまう。

 

「つられて元気になる」のは自然なこと。

 

C菜が元気いっぱいでいてくれることは、私にとって一番の薬であり、同時に少しだけ「あの子がいない」現実を忘れさせてくれる時間でもあるんです。

 


 

 

 

何か、家って、みんなバラバラみたいでバラバラじゃないような感じかなぁ。

 

物理的にはC菜は大学へ、L菜は実家(分骨)へ、私は仕事へと、それぞれ違う場所に身を置いている。

 

でも、見えないところでしっかりと一本の糸がつながっているような、不思議な連帯感があるんです。

 

それぞれが自分の場所で。私は仕事、C菜は学業、そしてL菜も、きっとあちら側で彼女なりの役割を。

 

みんなが自分の持ち場で一生懸命生きている(存在している)からこそ、バラバラに見えても「チーム」としての絆は揺らいでいない。

 


 

 

たくさんあるチョコレートも、それを買う私の心を通じて、家族全員をどこかで結びつけている気がします。

 

「あの子が好きだったね」という共通の記憶が、バラバラの場所にいる皆の中心にある。

 

寂しさもあるけれど、どこかで繋がっている安心感もある。

 

その矛盾したような、でも温かい感覚をそのまま大事にしたいんだ。

 


 

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だけどね、なんだかね、やっぱり寂しいから、お墓に入れる前に、全部入れるよりちょっとちっちゃい骨壺に入れておきたいと思う。

 

これって私のわがままかなぁ。

 

いなくなってしまうと、寂しいような感じがして。今回のL菜が実家にいったことで、その思いが大きくなっていった。

 


 

 

 

 

今は、小さくて可愛らしい骨壺に入れて身近に置いておく「手元供養」という形があります。

 

グリーフケアの現場でも、「すぐにお墓に入れなきゃ」と焦る必要はないと言われています。心が「これなら大丈夫」と思える形を選んでいいんです。

 

ずっと一緒にいたい、そばで見守っていてほしいと思うんだ。

 

L菜だって、私が寂しくてたまらない時に、お墓という遠い場所で一人でいるよりは、そばに一欠片でもいて、大好きだったチョコレートの香りがするリビングで一緒に過ごしたいと思っているよね。

 


 

 

少しだけ手元に残すことで、私の心がほんの少しでも安らぐのなら、それはL菜にとっても一番嬉しいことのはず。

 

これは、子離れできていないんだろうか...

 

C菜が元気いっぱいに大学へ戻り、私が仕事に励むなかで、ふと寂しさが押し寄せた時。

 

その小さな骨壺が「私はここにいるよ」という、L菜からのメッセージになってくれるかな。

 

手元供養ってそういう意味なんだ。

 


 

 

私ね、C菜に言ったんだ。

 

「母が亡くなったら、一緒に棺に入れてくれればいいよ。」って。そのL菜の小さな骨壺を。

 

一緒に。

 

ずっと一緒に。

 

「いつか一緒になれる」という約束があるだけで、これからの日々を少しだけ、お守りを持って歩くような気持ちで過ごせるかもしれない。

 

双子として生まれた二人が、時を経てまた母のもとで一つになる。

 

それは悲しいことではなく、家族の絆が完成するような感じがする。

 


 

 

お墓にすべてを納めて「さようなら」をするのではなく、これからも生活を共にして、最後は一緒に旅立つ。

 

その選択は、私にとっても、そしてC菜にとっても、心の折り合いをつけるための大切な「道しるべ」になるはず。

 

緑茶を飲んだ。 

L菜が好きだった緑茶を。

もちろん一緒に。

 

カテキンや温かい水分が、チョコレートの脂っぽさを優しく流してくれているといいんだけど。

 

お正月の静かな夜に、お茶の香りでホッと一息つく時間は、今の私にとって何よりの薬かもしれない。

 


まとめ

 

 

チョコレートは積もっていく。買わずにいられない。

 

それは、わがままじゃなくて、愛なんだと思っています。

 

小さい骨壺を手元に置きたい。それも、わがままじゃなくて、愛なんだと思います。

 

同じような気持ちの方がいらしたら、どうか「こうしなきゃいけない」に縛られないでください。

 

自分の心が安らぐ形を、選んでいいです。

 

バラバラなようで繋がっている家族。

 

チョコレートと緑茶と小さな骨壺。

 

そんな穏やかな時間が、今夜の私を優しく包んでくれています。

 

明日の朝、胃もたれがすっきりと治って、少しでも軽やかな気持ちで目覚められますように。

 

 


L菜へ

 

 

「チョコレート、一緒に食べたね。やっぱりメルティーキッスは美味しいね~。小さい骨壺、可愛いの選ぼうかなって思ってるんだ。一緒に選ぼうね。そして、ずっと一緒にいよう。L菜は嫌かもね~(笑)」

 

 

 

    

私のグリーフ時期お助けグッズです。

 

今回は小さい骨壺です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

私は、手元供養は小さい骨壺を考えています。

 

ジュエリーは、うっかりものの私はもしかして紛失してしまったり、かぶれてしまったりと心配があるからです。

 

可愛いのがたくさんあって悩んでいますチュー

 

 

「向き合えない時間も、母である ― 県外進学を前に揺れる日記

 

 

あけましておめでとうございます。


今年は、この言葉を素直に受け取れずにいます。

 

年が変わった実感はあるのに、
気持ちはまだ追いついていない。


そんな状態で、新年が始まりました。

 

実家から一足先に家へ戻りました。


3日から仕事がある、という現実的な理由です。

 

家に帰ると、L菜の遺骨はまだ実家にあります。


C菜と一緒に帰ってくるから。
それまでは、そこにあります。

 

家に戻ってから、
私はしばらく何もせずに座っていました。


何かをしなければ、と思うのに、
動く理由が見つからない感じです。

 


息子のことを考えています。

 

4月、大学生になります。


県外の大学です。

 

 

私はこれを、「母として今、一番しないといけないこと」だと思っています。


でも、正直に書くと――
向き合えていません。


今までも、ちゃんと向き合えてこなかったと思います。

 

L菜やC菜には、大学に行くこと、お金のこと、生活のこと、
たくさん話をしてきました。


L菜は、生活費も携帯代も、自分で払っていました。

 

でも、息子とは違いました。


話せなかった、というより、
どう関わればいいのかわからなかった、が近いかもしれません。

 

だから、この文章は、少し歪な形をしています。
でもこれは、誰かに答えを渡す記事ではありません。


私自身の記録です。

 


 

 

グリーフケアの視点で見ると、
大きな喪失のあと、人は「考える力」や「決める力」が一時的に弱くなることがあります。

 

それは怠けでも、逃げでもなく、
心が自分を守るためにブレーキをかけている状態です。

 

「ちゃんと向き合わなきゃ」と思えない自分を、
「母失格」だと思わなくていい。


今は、止まる力が必要な時期なのかもしれません。

 

そう自分に言い聞かせながら、
それでも、考えてしまう自分も、ここにいます。

 


 

 

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昨年末は、久しぶりに息子と二人でラーメンを食べに行きました。


散髪にも行って、「かっこいいじゃん」と笑い合いました。

息子のリクエストで、L菜にアイスをお供えもしました。


クリスマスケーキとごちそうも食べて、
「こういう時間、久しぶりだな」と思いました。

 

学校で見せている彼の姿と、
家で見せる彼の優しい顔。


どちらが本当なのか、どちらも本当なのか。
私はまだ、迷っています。

 


 

 

家に帰ってから、
妹が買ってきてくれて、実家にお供えしていた


サーティーワンのチョコミントを持って帰ってきました。

 

お供えしたアイスを、また冷凍して食べる。
これは、いつの間にか私の得意分野になりました。

 

L菜が好きだったチョコミント。
「よくそんなの食べるね」って、私はよく言っていました。


正直、あまりわからなかった。

でも、今食べると、すごくおいしい。


色メガネをかけたまま、私は見ていたんだなと思います。
わからないまま、言っていたことが、悔しいです。

 



 

まとめ、というほどのことはありません。

 

今日は、
息子のことも、母としての役割も、
答えは出ませんでした。

 

でも、ちゃんとできなかったことを、
ちゃんと書きました。

 

同じような気持ちの方がいたら、
立ち止まっている自分を、少しだけ許してあげてください。

 


L菜へ 

 

 

L菜、あなたがいたら、きっと笑ってたかな。
今日も答えは出なかったけど、書いたよ。

 

 

 

    

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わかったフリをやめたら、見えてきたもの――チョコミントと悔しさの話

 

 

 

 

あけましておめでとうございます。

この言葉が、今年はやたらと重たく感じた。

 

去年までは違ったのに。「今年はこんな年にしたい」「こんなことを目標に」って、希望を持って言えていた言葉だったのに。

 

今年は、なんだかうっとおしく感じてしまう。

 

実家に帰って、テレビをぼーっと見ていた。

 

画面の中で、何度も何度も繰り返される「おめでとう」の言葉。

 

どれだけこの言葉が溢れているんだろう。

 

なんだか、面白くなかった。

 

私は、一足先に家に帰ることにした。

 

3日から仕事だし、というのが表向きの理由だけれど、本当は、あの言葉から少し離れたかったのかもしれない。

 

分骨したL菜の骨は、まだ実家にあって、C菜が後日一緒に連れて帰ってきてくれる。

 

だから今日は、L菜なしで先に帰った。

 


 

 

 

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家に帰ってから、私はリビングに置いてある揺れていないコウペンちゃんをぼーっと見ていた。

 

私は、何かが欠落しているような感じがする。

 

自分の思い通りにならない時、気が済まないのかなそれとも、何か大事なものが抜け落ちてしまったような、そんな感覚。

 

言葉にならない、もやもやとした気持ちだけが、そこにあった。

 


 

 

そういえば、と思い出した。

 

妹が買ってきてくれて、実家でL菜にお供えしたサーティワンのアイスクリームを、持って帰ってきていた。

 

チョコミントのアイスクリームだ。

 

お供えしたアイスをまた冷凍して食べる。

 

私、この作業の専門家になってしまったなと、少し笑ってしまった。

 

誰が「お供えアイス冷凍専門家」になりたいと思うだろう。

 

でも、それが今の私の日常だ。

 

冷凍庫から取り出して、スプーンですくう。

 

チョコミント。

 


 

 

「よくそんなもの食べるよね」

 

私は、L菜にそう言っていたんだ。

 

 

「歯磨き粉の味がするじゃん」って、笑いながら言っていた。

 

L菜は「美味しいんだよ!」って言い返していたけれど、私は聞く耳を持たなかった。

 

色メガネをかけて、わからないで言っていた。

 

でも、今、実際に食べてみたら——すごく、美味しいんだよね。

 

チョコの甘さとミントの爽やかさが、こんなに合うなんて。

 

L菜が好きだった理由が、今、やっとわかった。

 


 

それが、やっぱり悔しいんだ。

 

 

もっと早く、L菜が生きている時に、ちゃんと一緒に食べればよかった。

 

「ね、ママも美味しいと思うでしょ?」って、L菜に言われたかった。

 

「うん、本当に美味しいね」って、笑いながら答えたかった。

 

でも、その機会は、もう来ない。

 


 

 

 

グリーフケアの世界では、「continuing bonds(継続する絆)」という言葉があります。

 

大切な人を亡くした後も、その人との関係は終わらない。

 

思い出や、残されたもの、そして「その人が好きだったもの」を通して、私たちは今も繋がり続けているという考え方です。

 

L菜が好きだったチョコミントを食べることで、私はL菜との繋がりを感じている。

 

お供えしたアイスを冷凍して食べることが、私の新しい「L菜との会話」になっているのかもしれない。

 

そう思うと、少しだけ、心が軽くなる気がする自分がいる。

 


 

 

「わかったフリ」をやめたら、見えてくるものがある。

 

私は、L菜の好きなものを、本当の意味では理解していなかった。

 

表面的に「歯磨き粉みたい」って言って、それで終わりにしていた。

 

でも今は、ちゃんと味わってみようと思える。

 

L菜が好きだったもの、L菜が笑っていたこと、L菜が大切にしていたもの。

 

ひとつずつ、ゆっくりでいいから、知っていきたい。

 

それが、今の私にできることなのかもしれない。

 


 

 

 

同じような気持ちの方がいらしたら。

 

大切な人が好きだったものを、「わからない」「苦手」と言っていたこと、ありませんか?

 

それを今、食べてみたり、触れてみたりすることは、決して無駄なことじゃないと思います。

 

もしかしたら、その時には見えなかった「好きだった理由」が、今ならわかるかもしれない。

 

そして、その気づきが、悔しさと同時に、温かさも運んできてくれるかもしれません。

 


 

まとめ

 

 

お正月の「おめでとう」が重たく感じる日もある。

 

欠落感や、思い通りにならない気持ちに包まれる日もある。

 

でも、お供えのアイスを冷凍して食べながら、私は少しずつ、L菜の好きだったものを知っていく。

 

それが、今の私にできる「L菜との会話」。

 

ゆっくりでいい。急がなくていい。

 

L菜が好きだったものを、ひとつずつ、大切に味わっていこう。

 


 

L菜へ

 

 

「L菜ママね、お供えのアイスを冷凍する専門家になっちゃった。笑ってる?
チョコミントって、こんなに美味しかったんだね。
今度は一緒に食べたかったな。」

 

 

 

    

私のグリーフ時期お助けグッズです

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

カウントダウンで飛び跳ねた夜——新年の挨拶より大切なもの
 
 

年が明けました。

 

でも、「あけましておめでとうございます」という言葉が、今の私にはどこか遠い国の挨拶みたいに聞こえています。

 

おめでとう、って言っていいのかな。

 

そもそも、何がおめでたいんだろう。

 

L菜のいない新年に、私は何を祝えばいいんだろう。

 

実家で過ごしている年末年始。

 

心の中に大きな穴が開いたまま、気づいたらワープしてきたような感覚でした。

 


 

 



 

実家に帰ると、L菜は写真の中で微笑んでいました。

 

いつもと変わらない笑顔。あの明るい表情。

 

でも、声は聞こえない。

 

触れることもできない。

 

写真の中のL菜は、ずっとそこにいるのに、私の手は何も掴めない。

 

それでも、その笑顔を見ていると、ほんの少しだけ、心が温かくなるような気がしました。

 


 

 

 

31日の夜、C菜が私にこう言いました。

 

「去年は、L菜とここでカウントダウンしたんだ」

 

その言葉に、胸がぎゅっとなりました。

 

去年のこの場所には、L菜がいたんだ。きっと飛び跳ねていたんだろうな。笑っていたんだろうな。

 

「私は代わりにはならないけど、一緒にカウントダウンしよっか」

 

私はそう言って、C菜と一緒に飛び跳ねました。

 

10、9、8……

 

数を数えながら、C菜と飛び跳ねる。

 

その瞬間、なんだか不思議な感覚がありました。L菜も一緒に跳んでいるような、そんな気がしたんです。

 

写真の中で微笑んでいたL菜が、この瞬間、私たちと一緒にいてくれたような気がしました。

 


 

 

新しい年を迎えたけれど、正直、どう過ごせばいいのかわかりません。

 

3日からは仕事も始まります。職場の人や親戚に会ったとき、「あけましておめでとう」って言われたら、私はどう返せばいいんだろう。

 

同じように「おめでとう」と返すべきなのか。

 

それとも、違う言葉を選んでもいいのか。

 

こんなふうに戸惑っている方が、もしかしたら他にもいらっしゃるかもしれません。

 

 
「おめでとう」じゃなくても、大丈夫
 
 

グリーフケアの現場では、「儀礼的な挨拶」に戸惑う方がとても多いことが知られています。

 

お正月、お盆、誕生日——こうした節目の挨拶は、心が追いついていないときには、とても重く感じられるものです。

 

でも、覚えておいてください。

 

相手の言葉をそのまま返さなくても、失礼にはなりません。

たとえば、こんな言葉で十分です。

  • 「今年もよろしくお願いします」
  • 「ありがとうございます」
  • 「昨年はお世話になりました」

相手が「おめでとう」と言ってきても、その言葉を発する必要はありません。

穏やかに受け取って、自分の言葉で返す。

 

それだけで、十分に丁寧な挨拶になります。

 

職場でも、親戚の集まりでも、無理に明るく振る舞わなくていい。

 

心の中で「L菜、今、挨拶したよ」とつぶやくだけでも、それはあなたを守る小さなバリアになります。

 


 

 

 

実家での時間は、どこか現実感がなくて、ぼんやりしています。

 

でも、それでいいんだと思います。

 

今は「どうしていいかわからない」という気持ちのまま、ゆっくり休む時間。

 

何もしない、ということにもエネルギーは必要です。だから今は、あえて何もしないことに集中してもいい。

 

C菜と飛び跳ねたあの瞬間が、私の心に小さな灯りをともしてくれたように、ほんの小さな出来事が、ふっと気持ちを支えてくれることがあります。

 


 

 

少し落ち着いたら、L菜が大好きだった神社に行きたいな、と思っています。

 

四十九日とか一周忌とか、そういう区切りを待たなくても、行きたいと思った時が一番いいタイミングなんじゃないかな。

 

神社はお願い事をする場所でもあるけれど、大切な人に会いに行く場所でもあります。

 

L菜を連れて、ゆっくりお参りをして、喫茶店でコーヒーを飲む。

 

その穏やかな時間が、私とL菜をつなぐ、新しい形の「一緒」になるのかもしれません。

 

今年もまた彼女と一緒に生きていきます。

 


静かに、一緒に、進んでいく
 
 

新しい年を迎えても、心はまだ準備ができていません。

 

でも、それでいいんです。

 

「おめでとう」が言えなくても、C菜と飛び跳ねたあの夜のように、自分なりの形で年を越すことはできます。

 

写真の中で微笑むL菜は、もう声をかけてくれないけれど、その笑顔は私の心の中で生き続けています。

 

同じような気持ちで新年を迎えた方がいらしたら、どうかご責めないでください。

 

挨拶の言葉に正解はありません。あなたが今、口にできる言葉で十分。

 

 

そして、大切な人は、もういないけれど、心の中にずっといます。

だから、一緒に歩いていけます。

 

ゆっくりでいいから。

 

ゆっくりと歩いていこう。

 


L菜へ

 

 

 

 

 
「L菜、一緒に年を越せたね。今年も、ずっと一緒だよ。
今度一緒に神社に行こう。あなたの好きな場所に。」
 
 
 

 

    

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実家には、抱き枕と、筋膜ローラーは持参しました。

やっぱりこれがないと心配で🤭

 


 

新年が来る。でも、私の1日はまだ続いている

 

 

 

12月31日。今年最後の日。

 

こうして文字を打ちながら、ふと思う。

 

今年って、本当にあったのかな、って。

 

1月のお正月。初詣に行って、L菜が大凶を引いて悔しがって、何回も引き直してた。

あの時の彼女の顔、今でも思い出せる。

 

双子の成人式。L菜とC菜とが、久々の友人たちと大いに盛り上がって、キラキラした顔で帰ってきた日。

 

 

2月、L菜のアパートへ。オーストラリアに旅立つ直前にどうしても彼女といたかったからゆっくりと彼女と2人で過ごした。

 

 

3月、L菜がオーストラリアから帰国。

 

帰ってきてからは、ホームシックだって言って、ゆっくり過ごしてた。

 

4月26日、双子の誕生日。毎年恒例のように、二人で祝い合っていた。

 

そして、5月1日。

 

 

 

 

 


 

 

 

あの日から、今日まで。

 

私は、ワープしてしまったみたいだ。

 

時間が飛んだ。

 

いや、正確には、時間は普通に流れていたんだろうけど、私の心がついていけなかった。

 

気づいたら12月の終わり。

 

カレンダーの数字だけが、容赦なく進んでいく。

 

今になっても、悲しみは消えない。

 

ゲームのアプリを入れて、L菜の名前をつけてみた。

 

でも、やっぱり彼女の代わりにはならないって気づいた。

 

当たり前なんだけど、その時は必死に彼女の代わりを探してた気がする。

 


 

 

 

そして今、私は「記念日による感情の波」に苦しめられている。

 

明日から新しい年。

 

同時に、1日は私にとって、毎月やってくる山場。

 

時間の流れに沿いながら、「こんなことを考えてもどうしようもないな」と思う自分と、「どうしようもない」と感じる自分が混在している。

 

この数ヶ月は、本当に「ワープ」してしまったと感じるほど、現実離れした、しかしあまりにも過酷な時間だった。

 

 

 

 

 


 

【グリーフケアの豆知識:記念日反応とは】

 

大切な人を亡くした後、誕生日や命日、季節の変わり目など、特定の「記念日」が近づくと、悲しみや不安が強くなることを「記念日反応(アニバーサリー・リアクション)」と言います。


 

これは病気ではなく、グリーフの自然な一部。


心が「あの日」を覚えていて、体も反応するのです。無理に乗り越えようとせず、その波を「やり過ごす」ことが大切です。

 


私は、この毎月来る子の日を「冬眠の日」と名づけました。




 

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30日は、仕事から帰ってから、5時間ぶっ通しでゲームをしていた。

 

5時間。


我ながら、よくやったなと思う。

やらないといけないことは山ほどあるのに、現実逃避が甚だしい。

 

そうなんだ、私はまだ、この環境の変化に向き合えていないんだ。

 

でも、ふと思った。


この5時間、少なくとも私の心は「グレーの世界」から離れていた。

 

ゲームの中では、ミッションをクリアすれば報酬がもらえるし、レベルが上がれば強くなれる。


単純で、わかりやすくて、安心できる世界。

 

現実は、そうじゃない。


頑張っても報われないし、レベルアップもしない。ただ時間が過ぎて、悲しみだけが残る。

 


 

 

お金を工面したくて始めた副業も、やめることにした。

 

「これからどうなるのかな」と思いながらも、少しずつ生活リズムを戻していくことが最優先なのかもしれない。

 

まずは、4月までは息子Aちゃんの大学進学に向けて、そのノルマを執行すること。それからになるのかな。

 

3月から4月の半ばにかけて、1ヶ月くらい休養したいなって思ってる。

 

L菜が行けなかった場所にも行きたいし、あの子と約束してた場所にも行きたい。でも、まだ自信がない。

 

今、本当にまだ疲れやすい気もするし。

 


 

 

逆に、1日から3日は、私の休養日って決めてるんだ。

 

どうしても「1日」という数字を見ると、5月のあの日から続く月命日としての重みが重なってしまう。

 

でも、それをあえて「自分が心と体を休めるための、大切な3日間」って定義し直してみようと思う。

 

特別な日。

 

L菜と一緒に、ゆっくりする日。実家に帰って、時間をとりあえずつぶす感覚で過ごす。それでいいのかな、って。

 


 

 

 

まだわからない。

 

時間が過ぎる。

 

でも、私は、どうしていいかわからない日が続くと思う。

 

来年は、こんなふうに、ずっとワープしてしまう1年になるのかな。そう考えると、少し寂しい。

 

彼女のいない新しい年は、どんな色をしているんだろう。

 

でも、ゲームをアンインストールしようと思ってる。

 

5時間もゲームに没頭できる「集中力のエンジン」が私の中にあるなら、その使い道を、いつか変えられる日が来るかもしれない。

 

今はまだ、その時じゃない。

 


 

そっと手を添えるように

 
 

時間が飛んだように感じても、悲しみが消えなくても、どうしていいかわからなくても。

 

それは、一生懸命に今を生きている証拠。

 

ワープしてしまった時間の中で、どうしようもない自分を責める必要はない。

 

ゲームに逃げ込むことも、現実から目を背けることも、今の自分とっては「心を守るための大切な時間」。

 

新しい年が来ても、あなたのペースで、あなたの時間を刻んでいけば大丈夫。

 

同じような気持ちの方がいらしたら、一緒に、そっと息をしていきましょう。

 


 

L菜へ 

 

 

「明日からね、新しい年になるけど、ママは今日もL菜と一緒だよ。」

 


 

 

    

私のグリーフ時期お助けグッズです。

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

    2025年、最後の日に。

 

 今年の5月から、ブログを通して、たくさんの方の言葉に助けられました。 

 

お互いの記事を読んで、「私だけじゃないんだ」って思えた瞬間が、何度もありました。

 

誰かの「どうしようもない日々」を読んで、私も今日を生きられた日がありました。

 

 完璧な答えなんて、誰も持っていない。でも、こうして言葉を交わし合うことで、少しだけ、この「グレーの世界」が優しくなる気がします。

 

 同じような気持ちの方がいらしたら、来年も一緒に、そっと息をしていきましょう。 

 

今年も読んでくださって、ありがとうございました。

 

来年も、あなたと。