先祖の系譜まとめ② | Coachぽぽろんのブログ

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※昨日の記事に一部、間違いがあり修正をしております。たいへん失礼いたしました。

 

今日の記事も長くなります。お時間ある時にお読みください。

 

 

雄勝城の初代城主の藤原朝狩(鎮守将軍)と田中多太麻呂(副将軍)と小野竹良(出羽守)が雄勝城下に赴任し、雄勝城運営と雄勝から秋田方向に向かって本格的な開墾を始めます。

 

先見隊は大野東人(鎮守将軍)、百済足人(副将軍)、百済王敬福や藤原朝狩(陸奥守)、田辺難波と途中から小野竹良(出羽守)でした。

雄勝城の場所へ続く道を決めたのが穏健派の田辺難波です。

 

聖武天皇と娘孝謙天皇と二代にまたがる大事業でしたので、選ばれたメンバーは出世コースです。

太政大臣の藤原仲麻呂は天皇の身内でしたので朝狩と親子そろって要職につき、自分の縁故者から人材を登用したため、不公平感からアンチ藤原仲麻呂も多かったそうです。

 

おそらく雄勝赴任メンバーはみな藤原仲麻呂の娘婿や孫婿など親戚で、コネ採用だと推理します。

 

雄勝城建設にあたり彼らは近くに自分の荘園を造り住まいを建てたと思います。

 

私の予想では、三輪神社が昔大野郡大神(みわ)郷にあり、毛野族大野氏は三輪族と関わりがあったと感じ、羽後に三輪神社を建てて三輪村と名づけたのが大野東人だろうと見ています。

 

百済足人の荘園は羽後足田と雄勝城付近の十足ではないかと思います。のちに馬場と合併。中国語で十足は完璧を意味します。当時は地名はめでたい字の2文字と規定されていました。

 

小野竹良は羽後の鵜巣に屋敷を構えました。

前任が美濃守だった彼は美濃で鵜飼いを見て来たため、鵜の巣を見て鮎が食べられる!と思ったに違いありません。

歌人小野老の息子ですから、鵜の巣のように細長いことと羽の巣(出羽の住まい)をかけたのかもしれません。

 

道を決めた田辺難波はその隣に道地村や山側に今宿郷(ちなみに彼の郷里は安宿郷あすか)を作り、百済王敬福は対岸の深井のある福地村を作ったであろうと見ています。

 

藤原朝狩は大沢村や雄勝城の造山の付近に屋敷を構えたのではないかと思います。

 

このあと雄勝城運営で後発隊が来たわけです。

 

彼ら貴族以外は帯同させた親族、工事をさせたり柵戸として住まわせ農作業をさせる使用人の奴婢、罪人、浮浪人しかいません。

 

しかも交通機関も未発達ですから都に簡単に帰ることも難しく、結婚相手は身分の違う相手は無理なので、帯同した上官や部下の娘や親戚しかいません。

雄勝赴任メンバーは荘園もご近所ですし、そのグループ内で縁組みをしたであろうと思います。

 

百済足人や田中多太麻呂は藤原朝狩とは東北や東海道で一緒に赴任しています。

百済足人は氏姓がなく余足人でしたがのちに天皇から百済姓を授かりました。

足人は百済王敬福の娘や藤原仲麻呂の娘を嫁にしてコネを作ったと思われます。

 

 

 

田中家と小野家と百済王家は奈良時代から雄勝城付近で醸造や川運の共同運営をしていました。親戚だったと思われます。

 

田中多太麻呂の息子八月麻呂の名前に小野家の伝説に関わる月の字がついています。

 

田中吉備の産んだ布勢内親王が伊勢神宮に赴任する時の付き添いが弟中臣王と藤原南家の人間でした。

さらに藤原南家の吉子の産んだ伊予親王の側近に吉備の産んだ中臣王が選ばれました。吉備の生母の実家が藤原南家だと分かります。

 

藤原(南家)仲麻呂の娘が小野竹良に嫁ぎ、竹良の娘が多太麻呂に嫁ぎ、太政大臣仲麻呂の娘婿、孫婿だから、小野と田中は雄勝城赴任メンバーに選ばれたのでしょう。

 

小野竹良も藤原仲麻呂の娘の他、百済王敬福の娘を嫁にしていたのかもしれません。

竹良と仲麻呂の娘との間に授かった娘(仲麻呂の孫)を百済王敬福の孫の俊哲に嫁がせた可能性があります。

 

百済王俊哲の娘に小野家の先祖の文字が入っていたり、法や徳など聖徳太子にまつわる字がつくからです。(小野の先祖の妹子は太子の育てた娘、片岡女王を嫁にもらった可能性あり)

 

百済の阿佐太子は来日し、聖徳太子の肖像画を書いてくれたような親交があったとされ、小野家も田中家も聖徳太子の娘を嫁にもらっていることや、いずれも百済系渡来人である蘇我氏の流れを汲むため、渡来系の田辺氏や百済王家とは親交があり、縁組みを繰り返していたと思われます。

 

百済の武王と新羅の善花姫との子孫である、百済王氏は日本に連れて来られ、親戚もいないわけですから、外国人を見下さない仲間であり、百済と縁のある聖徳太子つながりの小野家田中家とは縁組みするほど親しくしたと思われます。

 

桓武天皇は生母が高野新笠という百済の武寧王の子孫であり、日本人ではないことにコンプレックスがあったとされ、同じ渡来系の田中吉備や百済永継、百済王教法、百済王明信を女御にしたのは、そんな背景、仲間意識がありそうです。

 

田中吉備や百済王氏の娘たち、○代目小町と呼ばれた小野家の娘たちは、蘇我氏と百済王氏の美人遺伝子と、長屋王や田中浄足や小野老の歌人としての文才も受け継ぎ、美人女官だったに違いない。田中家、小野家、百済王家の娘たちは、複数の天皇の側室になったのです。

 

百済王俊哲の子孫の慶命は嵯峨天皇の側室となり、源定を産み、息子が源唱、その息子が源俊、その娘が田中保子の子孫の源満仲へと嫁ぎ、田中小野百済王の子孫たちが清和河内源氏になります。

 

ここで小野妹子からの系譜を追ってみたいと思います。

春日小野仲若子の息子が小野妹子です。聖徳太子から遣隋使に選ばれます。

 

私は聖徳太子は片岡女王を小野妹子に嫁がせたと見ています。

片岡姓の人が先祖荘園にいることと、妹子の息子が小野毛人という名前で、蘇我氏をイメージさせるからです。

 

毛人は毛野族の大野氏または上毛野氏から嫁とりしたのか、息子の名前が小野毛野です。

 

毛野はおそらく蘇我倉麻呂子孫の石川子老の娘を嫁にし石川氏と親戚になり、息子が小野老です。有名な歌人に。ここで小野家は田中家と同じ蘇我氏の遺伝子を受け継ぎ共通先祖ができます。

 

のちに石川名足が田中多太麻呂の部下、副将軍となり、そのまま鎮守将軍となりますが、田中家小野家の身内だから選ばれたと思います。

 

 

小野老は石川家と上毛野家の両家から嫁をもらったのか、息子は竹良と石根です。

 

上毛野の先祖に上毛野竹葉瀬なる人がいたらしく、その竹から名づけたのかもしれません。

 

竹良の弟小野石根は遣唐使となり、帰国の船が沈没して亡くなっています。石根の娘小野石子は美人で才能のある詩人だったと思われ、嵯峨天皇に慕われ晩年まで大事にされました。

 

小野竹良は藤原恵美朝臣仲麻呂の娘や、百済王の娘と結婚したと思われ、恵美の当て字と思しき永見と息子につけます。

竹良は仲麻呂の娘が産んだ娘を田中多太麻呂や百済王家へ嫁がせ、百済王の娘が産んだ娘は女官にして天皇に近づけたのではないかと思います。

 

藤原仲麻呂の天下は長く続かず、道鏡という僧医が高野姫こと孝謙上皇を洗脳し、それを諭した仲麻呂に上皇が怒り、上皇側と仲麻呂と天皇側の戦いに発展、仲麻呂一族は亡くなり、荘園も没収です。

 

雄勝の藤原荘園も没収され公領になり、小野や田中は仲麻呂一族の嫁つながりの親戚なので、こっそり藤原南家子孫を自分の荘園内に分家として住まわせ末裔を保護していたはずです。

 

その乱のため朝狩は亡くなり、田中多太麻呂が鎮守将軍となりました。

 

のちに道鏡の悪事を坂上刈田麻呂が暴き藤原仲麻呂親子の仇打ちをし、藤原南家から感謝され、坂上田村麻呂は娘を藤原南家に嫁がせ、坂上は秋田の荘園は娘名義にしたのか藤原を名乗ります。

 

坂上田村麻呂は征夷大将軍、小野永見は副将軍となりペアで秋田方向に北進します。

永見は野将軍と呼ばれ歌人でした。

秋田の将軍野は彼の荘園かもと思います。

 

おそらく坂上田村麻呂家は田中家小野家とも縁組みして親戚になったと思います。

 

坂上田村麻呂の娘春子が桓武天皇の側室となり、葛井親王を産み、その息子棟貞王と田中浄人の孫田中保子とを結婚させ、その娘を清和天皇に嫁がせ貞純親王が誕生。その子孫が源経基、その息子が満仲、そこへ小野家百済王家の子孫が嫁に入って、みんな身内でまとまったと思います。

 

秋田の荘園はほぼ田中家、小野家で、残りは百済王家、藤原南家、坂上家だろうと思います。

 

藤原家や坂上家は皇族ではなく東北に数千人を動員する資力はなく、最初から仲麻呂は蘇我氏子孫で皇族子孫の田中多太麻呂の動員力を当てにしていたはずです。

 

8000人も連れて来たら、原住民蝦夷もビビッて協力し、開墾も武力衝突なく早く完成しました。それで田中多太麻呂は伊治城も築城に成功して手柄を認められました。冤罪事件で亡くなった長屋王の娘婿だった祖父田中王がその巻き添えで官位を奪われていたものが、孫の手柄で官位を回復してもらえたのです。

 

田中多太麻呂が時の権力者から嫁をもらい開墾に数千人動員しパワフルに頑張ったのは、祖父母の官位を回復してあげたかった、冤罪で無念な最期を迎えた先祖たちの名前を荘園名に刻み弔いたかったからでしょう。

 

百済王氏もお酒好きで、気前よく他人に大盤振る舞いしてしまう人で豊かではなかったらしく、荘園は嫁名義は嫁実家が管理したようなので、百済王家荘園にも田中多太麻呂が好きな八幡神社が建つことからして田中家が開墾したところかもしれません。

 

さて小野永見はおそらく上官の坂上田村麻呂家から嫁をもらったのではないかと思います。

息子が小野岑守、石雄、滝雄です。

 

岑を守るという名前は出羽の岑を守る人という意味で征夷大将軍から来ていそうです。

石雄と滝雄は雄勝の不動滝の石が関係ありそうなので、秋田赴任中に嫁とりしたと見ています。

 

岑守は嵯峨天皇の侍読(教授)で、旅人の行き倒れ防止に療養施設を作った人です。

のちに田中家は小野寺泰道と縁組みし、小野家は小野寺義道の母実家の佐々木氏と縁組みし、佐々木氏は藩医家系のため、小野家田中家百済王家からはたくさんの医師が誕生し、多太麻呂荘園の上には現在、複数の総合病院やクリニックが建ちます。

 

小野岑守の医療への思いがつながっていますね。

 

岑守の息子の小野篁は歌人で文徳天皇の教育係でした。孫が小町です。

 

滝雄の娘や篁の妹や娘も美人であったらしく、小野家は小町という本名だった娘以外にも別名で小町と呼ばれた美人が複数いるようです。

 

 

田中多太麻呂の子孫は天皇の側室となり皇子を産んだことから度々冤罪に陥れられ、大事な家族を亡くし、子孫は次々と皇室を飛び出し、平氏と源氏の祖となります。

 

しかし仲良くしていた源平も喧嘩を始め、のちに戦いが始まります。

 

雄勝城では奈良時代から醸造や川運を始め、高野姫の花という意味で高花の地名をつけ、羽後では小野家が精米し麹を造り高花まで運んでいました。

高野姫の花とはユリのように美しいから由利と呼ばれた高野姫(称徳天皇)の秘書的女官、吉備由利で、政治を動かしていた人物。

彼女への機嫌とりに高花の地名をつけたと思います。麹は米の花とも呼ばれますから。

 

その高花で酒や味噌や醤油、酢の醸造をしたのだと思います。

貴族は精米し白米を食べていたそうですし、麹を作ったなら、たくさん糠が小野家付近に積まれ、糠塚の地名になったのでしょう。

 

雄勝城は私の推理では830年の天長地震で倒壊し、払田へ移築されたと思います。

 

幕府時代になっても源頼朝も足利氏も秀吉も家康も田中家小野家の子孫なわけですから、貴族時代に築いた土地を奪われることもなく、醸造や川運で豊かに暮らしたようです。

 

鵜巣や深井は江戸時代の年貢米の集荷拠点となり、要職を任されたのでしょう。

 

田中浄人が造酒正という役職でしたので酒造り技術を持ち込み、県内あちこちに子孫が酒造業や酒屋をしていました。

 

江戸時代までに南海トラフ津波、地震、噴火などの被災、平家の落人が先祖家を頼り秋田へ移住して来て、田中家小野家の荘園の空き地に全国の子孫を詰め込んで住まわせることが可能だったほど、田中多太麻呂は秋田にたくさんの荘園を持っていました。秋田横手美郷由利本荘大仙角館田沢湖八郎潟太田町はほぼ田中荘園です。

岩手の山田宮古大槌二戸北上なども。

 

先祖名がついているため、分かります。

 

田中家子孫はだいたい先祖の荘園名を名乗りましたが、藤原家に娘を嫁がせたため、子孫の被災者が移住したら、藤原だらけになったはず。

そこで佐竹藩にいた藤原は佐藤、伊達藩から来た藤原は伊藤、遠州から来た藤原は遠藤、肥後から来た藤原は後藤、尾張の藤原は尾藤、江戸の藤原は江藤、佐野から来た藤原は佐野と改名したのだと思います。

 

 

田中多太麻呂の開墾力は子孫を守ったのです。