最近、歴史を調べていまして、分かったことを備忘録として書きます。
高見王は実在しない説がありますが、理由は平氏が与えられた時に誕生していたのに無官だからということのようでした。
私は間違いなく高見王は存在したと思います。以下がその理由です。
市原市八幡の田中多太麻呂荘園だった場所に父高見王の供養のため息子高望王が無量寺を建てています。
田中多太麻呂の平塚荘園は高見王の娘平真砂子が亡くなり墓を建てた場所であるため平塚と名づけられました。
横手の田中多太麻呂荘園に真田一族がいて、隣に砂子田村もあります。あわせると真砂子です。
田中荘園の醍醐村には平塚一族を住まわせています。田中子孫の嫁が醍醐天皇の皇女なので醍醐村があります。
東北、東海道、美濃を担当にたくさんの荘園を築き、氏神の八幡神社をこよなく愛し地名にした田中多太麻呂には大魚、吉備、清人という子どもがいました。
彼が他界した後、娘吉備が宮廷に女官として入り、まもなく兄たちの従六位より高い正五位下の官位を吉備がもらった記録があり、兄ふたりも揃って五位に昇格。
これは天皇の皇子女ふたりくらい産んだ官位で、生母の親代わりの兄が六位で貴族以下だと困るため家族も昇格させた可能性があります。
通常は生母の名前と生んだ皇子女の名前、保護者の名前が載ります。
本来ならば田中吉備、○○親王、田中大魚女と記載されます。
しかし見当たりません。田中清人は出世記録がありますが、田中大魚が官位一覧から消えてしまいました。
代わりに中臣豊子、従六位中臣大魚女と記載されていました。大魚の姓が変わっていました。大魚の娘継子まで伊勢継子に変えられていました。
大魚の先祖の中臣姓に改姓して箔つけた可能性があります。生母の家柄にこだわるからには皇子を産んだ可能性があります。
生母の名前も本名幼名があったと思います。大魚の生母の実家藤原家先祖の豊成から豊子とつけたと思います。田中多太麻呂の荘園に吉田村と豊田村もあります。彼は荘園に子どもの名前もつけていました。
高望王の子孫はのちにこれら村から吉田や豊田を名乗っています。
中臣豊子は布勢内親王を産み、布勢内親王は伊勢神宮斎宮として赴任していました。その時に伊勢に送迎に付き添った親族が中臣王でした。
中臣王と布勢内親王と豊子が身内だと判り、つながりました。
これが布勢内親王の弟で中臣豊子と桓武天皇との第2子だと私は推理しています。
中臣王は記録によれば藤原吉子の生んだ皇子伊予親王の侍従でした。
藤原南家は吉備の母方親戚です。親戚だから侍従になれたのだと思います。
側近は信じられる親戚にしますもの。
伊予親王は謀反を企てたとする冤罪で異母兄弟の平城天皇から幽閉され母親ともども亡くなり、侍従で身内の中臣王までも連座容疑で拷問され背中がただれ、冤罪で獄死しています。
無実と判明したのは三年後。
大魚の娘継子と側室のライバルだった薬子が中臣王を冤罪に落とし拷問させた黒幕でした。
中臣王を犯罪者に陥れ、いとこの継子の産んだ皇子が皇太子につくのを阻止したかったのかもしれません。
おそらく中臣王こそが高見王でこの冤罪により親王名も官位も全て剥奪され、母姓の中臣王として記録されたと見ています。王がつくのに詳細不明にされていること自体が何かトラブルあったと感じますよね。
もし平城天皇が愛人薬子に騙され異母兄弟を拷問で誤って死なせてしまった失敗なら、記録を残しづらいでしょうし。。。冤罪と判明しても官位を戻しにくいでしょうね。そんな理由で存在を葬られたならば合点が行きます。
伊予親王の変で冤罪に巻き込まれ処罰されたメンバーを見てみると、伊予親王の親や親戚、伊予親王の子、侍従の中臣王、高見王后の親族である橘家の方々です。
中臣王が高見王で、高見王が疑われ、嫁の身内もワンセットで容疑をかけられたと見るのが自然ではないでしょうか。
幼い高望や真砂子は高見王が亡くなったから、弟葛原親王に育てられたと私は推理しています。
なので高見王と葛原親王はどっちか実在しないんではないかと疑う説がありますが、高見王は22~3歳で冤罪で拷問されて死亡、息子と娘は3歳くらいでお咎めなく、弟葛原親王の養子にして平氏をもらった、ということであれば辻褄があいます。
彼らの寺や墓がみな田中荘園にあります。
ここから中臣豊子は田中吉備ではないかと強く感じています。
布勢内親王がなぜ縁談も受けずに若くして病んで亡くなってしまったのか、田中荘園に伊勢堂の地名があることからしても想像つきます。
そして高望の子孫、桓武平氏中村家の子孫が秀吉です。
彼に豊臣を与えたのは後陽成天皇です。後陽成天皇の生母は藤原家の娘で秀吉や高望の親戚です。
身内の高見王が異母兄弟の平城天皇から官位を奪われ悔しい思いで亡くなっているため、後陽成天皇は子孫の秀吉に豊臣を授け、豊子や高見王の弔いと氏族の名誉回復をしたのだと推理しています。
秀吉も遺言で東大寺の八幡神社に似た神社にして新八幡と名づけ祀られたいと八幡宮を希望したそうです。
しかし豊国神社に祀られ、家康に壊されました。
明治天皇が再建しています。
秀吉の姉の子孫節子が大正天皇の皇后、秀吉は天皇の親戚です。
私の父の実家は村岡五郎こと平良文からつながる、秩父畠山流の一門、秩父重綱の子孫で清和源氏松井氏から婿取りしていました。桐家紋でした。
秩父重綱の先祖が高見王です。
藤沢の御霊神社に葛原親王、高見王、高望王が祀られてます。
実父と養父と息子が仲良く。
この神社は高望の五男、村岡五郎こと平良文(私の父の先祖)の勧請により出来、彼らを祀るよう命じたのは北条氏(高望の子孫)です。
身内たちが高見王を祀っています。
無実の罪で亡くなった人の怨霊を鎮めるために御霊会なるものが作られていたそうです。
下御霊神社に藤原吉子と伊予親王と一緒に吉備聖霊という人物も祀られています。
これは伊予親王の変で拷問で亡くなった中臣王の母、中臣豊子こと田中吉備のことだと思います。
これだけ資料がありながら高見王を実在しないことにしたがるのはなぜでしょう?
実在しないなら、わざわざ身内が寺や神社を建てたりしません。
田中荘園には桓武平氏村岡と清和源氏松井を住まわせている村もあります。
なぜ源平同居かというと田中氏の娘や孫や曾孫、玄孫が桓武、平城、嵯峨、清和、陽成天皇の側室だったからです。平氏も源氏も産んで、身内で仲良く縁組みしていたからです。
以上の理由から高見王は実在したと推理しました。