本の間にポストイットを挟んだり
教科書にマーカーで線を引いたり
大きなところで言ったら道路標識とか
世の中にサインって呼ばれるものは沢山あると思うけど
それって
何かチュウイ そこに視点を寄せるためのもの
意識が向かうところ
でね。例えば身体の痛みと言うのもがあったとして
多くのひとはそれをワルイと捉えるかもだけど
もし身体の痛みがまったくなかったとしたら
私たちの寿命はもっともっと短かったかもで
そう考えたら
自分を大切に扱うためのサインとしては
とても重要な役割を担ってくれていると言う観方も
出来るかも知れません
で、それと同様に感情と言うものにも本来の役割と言うか
重要な任務があるのかもで 笑
感情ってじつはひとそれぞれ ひとりひとりの価値観とリンクしていて
分かりやすいたとえで言ったら
サッカー観戦をしていたとして
ホームかアウェイか って言うのかな?
あまり詳しくないんだけど
先週のサッカーの試合の日
パブの入口に屈強な警備員と
ホームファンオンリーと言う張り紙
そして入口まで一列に並ぶ用にロープまで張ってあって
サッカー場でもなくスクリーンで観戦するだけなんだけど
遊びじゃないのよ イギリスのサッカーは?? 笑
ちょっと脱線しましたが
同じ一つの試合を見ていたとしても
ケッカに対しては
どっちを応援していたか(その価値のチガイ)によっても
試合後の感情は大きく二つに分かれるかもで
またまた余談ですが
大きなサッカーの試合(イングランド VS みたいなやつ)が終わった後
街の波動 エネルギー変わった?くらい
この国のサッカー熱ってすごいかも・・・ 笑
今日は脱線多いですね
閑話休題
感情はサインって話でしたね
でね。サッカーの試合を見て
喜んだり悲しんだり単純に感情を楽しむって言うのもいいかもだし
それはそれで楽しいよね ^^
一方でその感情が自分を長く苦しめるようだとしたら
もしその自分のパターンに気づけたとしたら
もうそこから抜け出るときだよ。のサインなのかもで
そのときは自分の感情に自分が気づいてあげる
自分がしっかりと抱きしめてあげると
いいかも知れません
オマケ
今でこそと言うか
年々と言うか
どんどん軽くなってきている実感がありますが
元々は
今思えば
世の中の何もかもがコワくて
その時は分かってなかったし
分かってなかったからこそ、ここまで生きて来れたとも言えるかも
要するにすべてカンペキだった ^^
自分の感情に蓋をして平気なふり 大丈夫なふりをしていたり
感情の蓋を少しずつ開けることによって
今度は逆に大きく揺さぶられたり 笑
まぁそれぞれのペース タイミングによって色々あるかもですが
それもこれも右と左を体験して
本来の自分(真ん中の自分 中庸 ホームとも言えるかな)に
戻っていくために起こっているだけで
奇跡は奇跡を信じた人だけが見れるセカイ
なのかも知れません???
これを訳すと
自我さんがサレンダーしていくといいとも言えます
ここが頭で理解しようとすると色々こんらんするとこですよね ^^ わかります
だからこそ自分のペースで
ちょっとずつ自分を許す 認める
あきらめる 手放す
自分に素直になっていく ^^
ゆるめる
手放す
自分とつながる
焦らずいっぽいっぽ ^^