コーチあねごです。



一年前の今日、日中に起こった大地震。あれから1年。着実に時間はたっていくのですね。





この1年、多くの人たちがこの出来事に関わってきたと思います。





私は何もできずにここにいます。



ある友人は、トラックを使い、被災地を回って物資を運んだ。



ある人は、津波の片づけを手伝いに、なけなしの時間を使って、大阪から足を向けた。





私は何も行動できませんでした。義援金を使用目的のはっきりしているところに資金を送る。子供たちに対しては、できるだけのことをするだけ。



直接行く勇気がなかった。そう、なんだかんだ言って、勇気のない、腰ぬけ、ここぞの時にチャンスを逃がすへたれ。そんな自分と1年間、あの出来事を通じて、いつも「腰ぬけ」な自分とともに過ごしてきました。




阪神大震災の時にも思いました。近くで感じたものの、被災していない私と、家を無くした人とは絶対に同じではないし、同じにしてはいけない。他人がそこに対して、何が言えるだろうか。当時は、大阪は通常の生活できる状態でした。片や被災地は・・・・



人が何かしらの課題を抱えている時にも、私はいつも同じことを感じる。



向き合うのは本人であって、私ではないし、代わりにやってあげられるはずもない。これが自分が大切にしたい愛する人のことであっても同じで、それはさらに自分の無力さや無能さで張り裂けそうになる。でも素直に伝えることはしない。



立ち入ることができない領域だと思うのです。自分なりのに精いっぱいの「大丈夫ですか?何か手伝えることがあれば・・・・」の言葉の軽さ、愚問さときたら、本当に情けなくなる。いたたまれずに伝えた時もありましたが、「大丈夫ですよ」と軽くいなされる。ほんと愚問。。。。


何かできることがあれば手を差し伸べたい、私でできることはないか、何かの役立つことはないか?、と思っても、「今、その人に一番必要なことは何か?」の問いには、なすすべもない。



そして、今回の友人たちが感じて動いた時のように、そこにある「素直さ」も欠けている要素。



そんな1年。



地震を経てから、「常に、そして真に相手の立場に立つ」とはどういうことでしょうか?という本質的な問いを目の前に突き付けられた。そして、そのための勇気がない人なんだなあと改めて思った次第。




地震の被害にあわれた方の、一日も早い復興を心よりお祈り申し上げます。



そして、大地震で亡くなられた方のご冥福を心よりお祈り申し上げます。



合唱