震災から二年 | 津田紘彰のブログ

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日本コーチングセンター所長の津田紘彰(つだひろあき)が、コーチングを中心に生きることや日々学ばせて頂いたことについてお話しさせて頂きます。
少しでも皆様の気づきや元気に繋がりますように。

二年前のその日、私はまだスーパーマーケットのいち社員でした。

ちょうど下を向いての作業中であった為視界がグラグラして、周りを見渡すと多くの女性が床に座り込んでいます。すかさず天井を見上げると電球から垂れ下がった紐が大きく揺れていました。

体験したことのない揺れに戸惑いながら、床にへたり込んでしまったご高齢のお客様がたを助け起こして声をおかけし、すぐ電話で妻と父母に安否確認をしました。

「東北で、マグニチュード8」

関東以北の各地の震度が次々と更新されていきます。とんでもないことが起こったのだと。

帰路についた車内のTVには、この世のものとは思えない光景が映し出されています。

自分に何が出来るだろう、自分は何をすべきだろうか…?

TVに映る凄惨な状況を眺めながら、ここ名古屋で安穏としていることが申し訳なくて、もどかしくて…阪神淡路大震災の時に被災地入りした経験を生かして、何か出来ぬものだろうかと、夜も眠れず、ただひたすら考え続けました。

「行くしかない」

心の底からそんな強い思いが突き上がってきました。1000年に一度と言われる大震災を目の前にして、今動かずにいつ動くのだ、と。

救援物資が足りない、食料が足りない、という情報が次々と入ってきます。スーパーの店員であるという立場を生かしてまず出来ることを全力で、と思い、業者に協力を願い出ました。

カップラーメンやお米、水や缶詰を何とか私の自費で仕入れてもらうことは出来ないだろうか、と相談すると、当時仲良くしていた問屋の営業の人が快く引き受けてくれました。また、被災地までこの物資を運んでくれる運送会社を当たってみると、小牧にある名備運輸さんから「いくらでも持ってきて下さい!」と力強いお言葉を頂いたので、お米や食料、水や衣服を大量に買い集め、小牧まで何度も妻と運びました。

そして震災発生から10日後、会社に辞表を出し、寝袋や食料や水、瓦礫撤去の為のスコップなど40キロ近い荷物を担いで被災地に入りました。余震や原発の恐怖、妻や両親を残して行くことへの不安もありましたが、それでも、やはり動かずにはいられなかったのです。

瓦礫…私たちが簡単にそう呼んでいるものは、そこにお住まいの方々の、大切な大切な思い出の塊であるということを、現地で思い知らされることになります。スコップで掻くたびにヘドロの中から出てくる無数の写真、本、家具の残骸…。

名古屋にいると、どこか、遠い場所で起こった悲劇という目で見ていたのかもしれません。しかし私が現地にいることで私の家族にとってはもはや「他人事」ではなくなります。また、現地の方と出会って、名前を覚え合い、心を交わすことで、もう他人事、ではなくなります。

東北で、多くの出会いがありました。瓦礫撤去の作業中、休憩しながら昼食がわりにカロリーメイトを頬張っていると近所のおばちゃんたちが声をかけて下さいました。
「汗かいて、寒くない?カイロ持ってきてあげようか?」
「カップラーメンとかあるんじゃない?お湯沸かしてきてあげようか?」
一人のおばちゃんは、自分で漬けたというお漬物を持ってきて下さいました。
「汗かいたでしょ、塩分とってね。こんなものしかなくてごめんね」

泣いてはいかん、と思いながら、もらったお漬物を噛み締めて視界が滲んできます。どうしてこんな、自分が誰よりも大変なこの時に、人は人に優しく出来るのだろう、と。

亡くなった方の数を知ることも大切ですが、それ以上に、そこに生きた一人の人間の人生に寄り添うことのほうが、この震災の本当の悲しみを知り、今自分に何が出来るのかということを教えてくれるのかもしれません。

あれから二年という月日が流れました。そして、今なお、誰かの力や励ましを必要としている人たちがいます。

遠い場所で起こった悲劇ではなく、共に在り、共に生きているのだということをいつも感じながら、いつも祈り、思いを込め、また何度でも足を運びたいと思います。

まだまだ、これからが復興本番です。