「原点」 | 津田紘彰のブログ

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日本コーチングセンター所長の津田紘彰(つだひろあき)が、コーチングを中心に生きることや日々学ばせて頂いたことについてお話しさせて頂きます。
少しでも皆様の気づきや元気に繋がりますように。

下記の文は、今年1月17日にFacebookに載せたものです。

私の思いや、私という人間の原点を少し知って頂ければと思い、こちらのブログに転記させて頂くことにしました。

阪神大震災の時の経験を書いたものです。少し長いですが、宜しければ読んでやって下さい。

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「原点」

今日(2013年1月17日)は、阪神・淡路大震災が起こった日ですね。

あれから18年、真冬の神戸で見たあの光景は、間違いなく私の原点となっています。

当時、岐阜の山奥にある全寮制の高校に在籍していました。

震災の風景や現地の方々の声を新聞で(寮にはTV等がなかったので)読み、居ても立ってもいられなくなって、何かお手伝い出来ることはないだろうか、と学校と部活の顧問に休みを願い出ました。

名古屋に帰省してバックパックに着替えや寝袋、食料を詰め込み、電車を何回も乗り継いで寸断された路線はヒッチハイクをし、何とか神戸の三宮に入ることが出来ました。高校一年生の時です。

東日本大震災の時も、この時と同じような思いが突き上がってきて、すぐに会社に辞表を出し、上司や同僚にも散々なことを言われながら被災地へ飛んでいきました。16歳の時から全く成長していないようです。

今考えれば、そんな風に高校生が単身神戸に乗り込んでしまっては二次災害の心配もありますし、何かあったらそれこそ現地の方々にご迷惑をおかけしてしまいますので本当に若気の至りで申し訳なかったと思います。

その若さゆえに心の底から込み上げてきた、少しでも、困っているどなたかのお役に立てれば、という純粋な熱い思いで、幸い愛知県から来ていたボランティア団体の方々に仲間に入れて頂き、ガレキの片付けや物資の仕分け、炊き出しなどを無心にお手伝いして、風呂にも入らず食事もたいして摂らずに、夜は小学校の硬い教室の床に薄い寝袋一枚でガタガタ震えながら眠りました。

焼け野原になった街、三階部分だけがペシャンコになっている五階立てのマンション、横倒しになった高速道路、そして家族や家、思い出を奪われて打ちひしがれる人々の顔、顔…。

高校生の私には全てがあまりにも衝撃で、何と自分は小さな存在なのだろう、何も出来ない、何も出来なかった、と無力な自分を思い知って立ちすくんでいたあの日のことを、昨日のことのように覚えています。

忘れられない思い出があります。

小学校の校庭で大鍋に豚汁を炊き出し、近所の住民の方々に召し上がって頂こうと、次々と器に盛ってお配りする係を任されました。

詳しくは覚えておりませんが、少しでも元気づけなきゃ、はげまさなきゃ、との一心だったのでしょう、「どうぞ!」「どうぞ!」と笑顔で配っていたのだと思います。

次の瞬間、バシッ、と音がして、私が手渡した豚汁を、ある男性に跳ね飛ばされてしまったのです。「私たちは乞食じゃない!」と。

私の笑っている顔で、その方を傷つけてしまったのかもしれない…。18年経った今でも、たまに思い出しては、胸が苦しくなります。

そしていつも自分に問うのは、

「今の私は、炊き出しを跳ね飛ばされない人間だろうか?」

「今の私なら、きちんと受け取ってもらえるだろうか?」

ということです。

今でも3か月に一度東北へ活動しに行く度に意識してしまいます。

「今の私の笑顔は、誰かを傷つけていないだろうか?」

それから9~10年後、ミュージシャンとなり、全国ツアーでその時以来初めて神戸を訪れ、立派に復興して元の風景を取り戻した、美しい街並を歩きながら涙が溢れて参りました。

誰かをほんの少しでも勇気づけられたら、と思って活動し、圧倒的無力感だけを感じて帰ってきたあの日から18年。

生涯、自分に問い続けるのだと思います。

「あの時より、誰かを笑顔に出来る人間になれているか?」と。

それが私の原点です。

今日も頑張ります。
最後までお読み頂き、ありがとうございました。