「六十の手習い」、といってもその学問や習い事の対象は「愛」、「愛を学ぶ」である。
では、どのようにしたら「愛」を学ぶことができるかだが、自然とふれ合い、植物に積極的に働きかけることで学ぶことができる。
自然に働きかけることで、自分の内なる自然にも働きかけ
何かを大切にするという養育という態度を育むことができる。
ー精神科医スー・スチュアート・スミス著『庭仕事の真髄』
この「何かを大切にする養育という態度」こそ、「慈愛」である。
ところで、近頃、「町娘」に「懸想(けそう)」をした。
著書『愛するということ』には、「愛を学ぶ」には実践しかないと書いてある。
ネットで【懸想】を検索したら、「小町娘に懸想をする」という例文が出てきた。
また、コトババンクでも、
今に小町娘が自分を見つけて病気になるほど惚れるに違ひあるまいと信じてゐた
ー金子洋文著『喧嘩(1923)』
とあるから、「懸想」が広く一般的に使われたのは、昭和の初めまでで「小町娘」とセットなのであろう。
その「町娘」は「帳場」というか、レジを打っているのでそんなに長く話はできない。
以前にも投稿したが、この先進めば、『メグライアンとトムハンクスが出てきそうな物語である』というぐらい
「惚れる」とは人を盲目にさせる。
そこで、お互い連絡を取り合う方法はないものかと考えた挙げ句、苔テラリウム・ワークショップのパンフの裏に名前とLINEのQRコードを印刷した。
そして、買物カゴの中へ、買ったネーブルオレンジの下に自然とふれ合うセラピーのパンフレットとともに置いて
彼女がネーブルオレンジを取り上げるとほぼ同時にパンフを取り上げ、そして渡した。
こんなことをやってます。
よかったら(裏のラインのQRコードを見せて)友達になってください。
やっと言えたが、ドキドキしてときめいた。
いい年して、こんなことして阿呆じゃなかろうか、と思う。
このところ、ずっと寝不足で午後一でユンケルンを飲んで、しのいでいたけれど疲れが吹っ飛んだ。
幸せホルモン、オキシトシンが出てきたのであろう。
「愛」は、疲労よりも強し。
10歳は若返って、自然治癒力や免疫力がアップしたようにも思える。
今度、『ときめき』が大切だとおっしゃっている帯津良一先生にお会いしたら打ち明けよう。
もっとも、「愛」と呼ぶには、まだ、早いかも知れない。
オレがこんなに年寄りだと知ったら落胆するだろうけれど、
正直に早い内にちゃんと伝えよう。
それにしても、長く生きていてよかった。