「自然」とは人々に活力を与えるが、大きな災いもたらす人知人力超す「生命(いのち)」の働きである。
これは、日本人のもっていた自然観である。
その自然観からすれば、人間社会に大きな災いをもたらす自然災害であっても、
そのことには(未だ)人間の理解の及ばない自然の働きがあり
だから「シカタガナイ」といって忍従するほかない、ということになろう。
その忍従の姿勢は、ある意味で「うまくあきらめる術」でもあった。
この「シカタガナイ」は、決して無責任な「敗北主義」ではない。
時としては、日本の自然観がもたらした知恵でさえあるだろう。
「日本の自然観と災害」佐伯敬思氏
これは、『「異論のススメ スペシャル」日本の自然観と災害』佐伯敬思氏の論文である。
(2023年9月1日が関東大震災から100年となる節目に書かされ記事)
令和6年能登半島地震に際して、不謹慎だと言われるかもしれないが、
私自身、この「うまくあきらめる」知恵に違和感を持っていて、気になったので新聞の切り抜きを引っ張り出してきた。
違和感があるのは、「うまくあきらめる」知恵が日本人にとって何をもたらすのか、
どんなメリットがあるのか、が書かれていないからだ。
改めて、知恵とは、当面の問題を解決するための、よい考え、とある。
(新明解国語辞典 三省堂より)
単純に、自然災害を「うまくあきらめる」ための知恵、よい考え自体を日本人が呼び戻せといっているのだろうか。
それとも、大きな災害の後、これは天災なので「シカタガナイ」と「うまくあきらめる」
そして、気持ちを切替えて、強く生きる、といった心のケアのこと言っているのだろうか。
或いは、誰もが避けられない死と同じで、人生には予期できぬ自然の災いがあり、
前もって幸せには限られた時期があることを知ることによって、
災害の伝承や教訓など「よりよく生きるための知恵」が新たに生まれるはずだと言っているのだろうか?
一方で、佐伯氏は、日本人の自然観が薄れてきていると言っている。
自然災害には理由があり、
それゆえ自然科学的な解明を期待できる。
科学の進歩が、自然現象の謎を解き明かす時がくるとみなしている。
(とはいいうものの、欧米に比べ)自然に脅威や障壁に対し
ありとあらゆる資金と人力を投入して立ち向かう強い意志は、
われわれ(日本人)には希薄である。
かつて、哲学者カントは、
従来の人間が理性によって自然の脅威に打ち勝ち、
無力感を克服して敢然と立ち向かう。
そこにこそ人間のもつ真の「崇高」さがある
「崇高」な精神こそが自然の脅威を克服する力だと、言っている。
しかし、スー・スチュアート・スミスは、著書『庭仕事の真髄』の中で
最近では、私たちのまわりに広がりつつある自然の危機とともに
庭を持っている人間の身心を修復する能力という側面が目立ってきている。
ガーティニングでは、人間が自然を支配することは少なくなり、
救出と修復という面が大きくなる。
自然をどう理解し、どのように描くのかというパラダイムの変更が起きている。
と書いている。
伝統的な日本の自然観が希薄になり、自然科学によって謎を解き明かすという欧米的な考えの方に振り子が振れているようで定まらない。
日本でも自然をどう理解し、どのように描くのかパラダイムシフトが起きつつあるのではないか。
その中にあって、自然災害とどう向き合うのかが問われているのだと思う。