「忘れさせれる」
嫌な記憶を忘れさせる、楽しい記憶で上書きする、嫌な記憶そのものを消してしまう。
レシートを見ておつりがゾロ目だったり、ふいに寄ったコンビニで新発売のトレカが買えたり、カフェで新作の試食を勧めたれたり、ささやかな喜びの記憶は明日にはなくなっている。
心に深く刻まれた箇所をパテで埋めて固めても、時間が経ち手触りで凸凹が感じられなくなったとしても「跡」は残る。
古傷を新しい思い出で埋めても、黄色がかった白色に真新しい白で対処しても、時間経過が違って記憶の色が馴染まない。
自分で自分を「傷付けたこと」、自分で自分に「刻んだこと」。
他人に「傷つけられたこと」、他人に「刻まれたこと」。
「物心ついたときから」という言葉があるように、心は、形作られる。
0歳、3歳、5歳、7歳、、、保育園という外の世界や家の中で、他者と親(または保護者)の間を行き来しながら世界を目にし、子どもたちの心が育まれる。例えば、心の核となる部分が、2際のときの思い出、3歳のときの恋心、4歳のときのプールなど、そのときどきの思い出が融合して形成されるとしたら……物心は、喜怒哀楽の感情を混ぜた、またはステンドグラスのように色味が配置された個々で違う形と色になる。
トラウマ級の出来事が起きたとき、心はどうなるのか。
物心というくらいだから、壊れてしまうかもしれない。
「忘れさせる」
物は、捨てると、忘れられる。断捨離ではないけれど。
心の断捨離ではないけれど、物心は、捨てると忘れる。
捨てたとしても昔の形を覚えているから、似た形に、似たような心になる。昔の影が見えてしまい、忘れられない記憶になる。記憶を薄めることはできるかもしれないが、小さいころに大切にしていた自分の心の形を忘れられないのだ。
だから「忘れさせる」という台詞を吐くなら、そんな大事だった心が霞むほど素敵な形を提示する覚悟があるのだろう。しかし、苦い記憶を思い出すヒマもないほど楽しい日々を継続させることは無理で、一人の時間に考え込むだろう。
「忘れる」「忘れさせる」は、その記憶を「捨てる」「捨てさせる」であるかもしれない。
捨てられたとしても、似た形を作ってしまうかもしれない。
でもそれを続けていくと、時間と共に記憶も風化して、違う形になっていく。
トライ&エラーで作り続けていくことが、解決への遠い道のりであり近道だ。
結局、生きていくことでしか、忘れられないのかもしれない。
傷付けた人間は、傷付けたことすら気づかない。
致命傷になるほどの凶器なのに、言葉の小刀は、証拠が残らない。それは「忘れるな」だ。