デザインは筋肉だ -32ページ目

デザインは筋肉だ

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恐怖で声が上げられないとき、沈黙することでしか自身を守れない環境や年齢にいるとき、声を上げたことで事態が悪化したことがありその経験から沈黙をしてしまいがちなとき、力のある人間に無理やり押さえ込まれたとき、「沈黙する術」のおかげで生きながらえた、劣悪な環境にいた子どもやブラック企業に勤めていた人もいるはず。
「強行採決した与党を選んだのは国民だ」と野党がいうなら、「強行採決を止められなかった野党」でもある。「沈黙でもしていたのか?」=「何もしていなかったのか」、それとも黙っていれば通るから「沈黙は容認」として与党のせいにして体よく黙っていたのでは無いかと言われても仕方ない。
仕事でプライベートで起こる「いろんな出来事」の一番身近にいる人間が、その出来事の先にある結果がはたから見てもあからさまに「悪い」としても、声を上げないことについて第三者からすれば「なんで声を上げないんだろう」と思うことがあるかもしれないが、「なんで声を上げられないんだろう」と寄り添って思いやれる人は少ない。

何かしらの出来事が起きて、その出来事に対して沈黙していたとき、または沈黙するしか方法がなかったとき、それしかできなかったとき、その出来事の関係者から

「黙ってたからオッケーだと思っていた」

と言われたら、それを聞き入れなければならないということなのか。自分が被害者だろうとその言い分は聞かないとだめだよということなのか。そんな暴論を受け入れろというのか。「声を上げられなかった理由」を感じながらも自分の都合のいいようにその出来事を動かしたいからと黙っていたことは、罪ではないのか。知らないことが罪なら、教えないことも罪なのではないか。

沈黙は容認か。否認か。どっちでもあるに決まっている。時と場合によるに決まっている。

極論になってはいけない。沈黙する人が多いと憂うことは、主張していく人を増やしたいと同義だと思う。そして…




……というような主張があるとする。その主張に対し沈黙するか、主張をするか。賛成した人10人:反対した人20人。どちらでも無い人4000万人いたとする。「知らなかった」ことは「沈黙」に数えられ、「沈黙は容認」とするなら、賛成多数になる。
知らないまま何かが決まってたり、何かが進んでいたりすることがある。「知らない」や「わからない」という判断がつかない多数の意見を勝手に都合よく解釈して組み込んで、介護や家事や育児や仕事に追われる、日々の生活を支える人たちに対し、社会情勢を把握することを生業とする文化人が厳しく問いただす。
「なんで声を上げられないんだろう」と寄り添って思いやれる人は少ない。