大人の都合で子どもは過ごしている | デザインは筋肉だ

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4歳と5歳くらいの男の子2人、家族四人でファミレスで食事をする。22時でなければなんとも思わない。
父親と6歳くらいの女の子が食事をしている。スマホを見ながら父親は、一人で食べれるでしょというふうに待つ。22時半でなければ何とも思わない。
歩道で手を繋いでママと歩く3歳くらいの子ども。23時出なければ何も思わない。

夜中に子供がご飯を食べる。出歩く。
眠いはずなのにそんなことはおかまいなく、親は大人の感覚で子供と過ごす。子に合わせない大人。

その日だけなのかもしれない。
たまたまなのかもしれない。
用事が重なり仕方なくかもしれない。

子供を預けられる身内が遠くにいる、核家族なのかもしれない。
子供を育てるなら、親の親は近い方がいい。拡大家族の方がいい。
核家族化が進むから共働きは増え、子供らに我慢を強いる。親との折り合いがつかないのはどの家庭も少なからずあるはず。それを避けるのは、コミュニケーションが煩わしいから。一つ屋根の下で世代が変われば価値観も変わる、そんなストレス下に耐えられないのか、実家から遠くへ離れようとする、実家に訪れることを減らす。そのくせ大事なときは親に頼る。

子どもは車に乗れないし、お金も持っていない。一人では何もできないからこそ、毎日を生きるために生きている。
そんな健気で一生懸命な姿に愛らしさを感じ、守りたいと思い、大人は保護者は親は大事にするのではないだろうか。

多様性に理解を示したフリをして、自分の中に無い意見は、初手でとりあえず批判し、多数であれば=攻勢とし、数の力で自分の中に無い意見に蓋をする。

「間違った意見だ」という個人の意見は明確に発せず、“多数”に“個人”の意見を埋もれさせて、自分の意見を大衆の意見に紛れ込ませて、発言してないふうな雰囲気を作る。

認め合うことをせず、批判の応酬。多様性とは、戦争なのか。

意見=色だとしたら。

例えば、
「そういう意見」=「青」だったとして、
認め合うことは「そういう意見もある」というのを心に仕舞うことではないか。
「そういう意見」に染まることを恐れているのか。
「青」に染まった心を「赤」に染まった人間に見られたら、攻撃されたりするからか。

自分の心の色は、自分にしかわからない。
でもみんな、人間は、心が“染まりやすい”から、他の色を取り入れられない。
でもそれは大人に多いだけで、子どもは、いろんな色を取り入れる。

絵の具をイメージして、いろんな色を混ぜたら「黒色」になることを大人は知っている。

赤ちゃんや子どもは真っ白だから、親の色に影響を受ける。
何もない白に、親の色が混ざる。大人の色が混ざる。友達の色が混ざる。環境の色が混ざる。

朝昼夜、外で、家の中で会う大人の色に染まっていく。友達の色を感じていく。

色に寒色(青系統)と暖色(赤系統)があるように、大人の心の色にも系統はある。昭和と平成、世代が違えば家電の色合いも変わるように、時代の色に当てられて染まった部分は各世代にある。

子どもの心は、我々大人次第。

自分の心が黒に染まったと思ってる大人は、そうではないことに気づくべき。
大人だって子どもだった。その黒は、「自分以外の色」が混ざってできた黒。
自分の色を思い出す。自分が好きだった『自分の色』。どんな自だったかを。