備えあれば憂いもある | デザインは筋肉だ

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どれだけ察しても、どれだけ先回りしても、どれだけ思いやっても、それらの出来事についての対価を求めてはいけない。トラブルが起こる前に事を収めたとしても「トラブルが起きていない」のだから誰から感謝されるはずもなく、関係者にとっては「何も起きていない」のだから礼を言う筋合いもない。察することが不快にとられ、先回りが余計なお世話になり、思いやりが当たり前になり、勝手に心配して、勝手に疲れていく。そもそも、トラブルなんてなかったかもしれない。心配なんていらないのかもしれない。起きていないことを心配して、未然に防いだと自己満足しているだけかもしれない。

トラブルがなければ経験は積めない。
心配するだけ無駄なのかもしれない。
ただ「何もしない」が最良でもない。

例えば、「〇〇が原因で、起きたこと」は証明しやすいが、「〇〇が原因で、起きなかったこと」は、証明が難しい。
例えば、天ぷら油を熱しすぎてボヤになったが、消化剤を準備していたので事なきを得た。消化剤は父が用意してた。
例えば、天ぷら油を熱し過ぎないようコンロにタイマーをかけたり日々注意しながらボヤにならぬよう料理してた母。
注意していたことで日々ボヤを防いでいた母は賞賛されず、いざボヤとなった・事が起きた時の対処で父に目がいく。
「備えあれば憂なし」は父の立場で、何十年と「備え」ながら料理をしていた母の立場は「備えあれば憂もある」に。
他者に「備え」が認識されない限り憂いは残る。かといって「備え」をPRするために事が起きるのを待つのは違う。
やはり「心配は勝手にする」のが良いかもしれない。まだ来ぬトラブルに備えて、結果として備えと憂が残ろうとも。
「君のことが心配だ」と誰かを勝手に心配する。あなたが「勝手に心配する人」は、きっとあなたにとって大切な人。